院子に続く階で、すれ違った。
少年は立ち止まり、自然と少女を見つめた。
目線が追いかけるのは、もう習い性。
今更、直すこともできないクセに、陸遜は自嘲する。
短い髪が風を彩り、甘い香りが鼻をくすぐる。
何かから、逃げるように階段を下りていく少女に
「大丈夫ですか?」
そう尋ねた。
平素とは異なる印象の雰囲気をまとった尚香は立ち止まる。
陸遜の一段上で。
「大丈夫よ」
強がりな少女は、にこやかに笑う。
その声も、普段を同じ。
気がつかず見逃してしまうほど、小さな差異。
他の誰でもなく、自分だから気がついた。
「私はいつもと変わらないわよ。
陸遜は心配性ね。
一体、何を心配しているの?」
尚香は言葉を重ねる。
明るい色のまつげが心細さを訴えていた。
大きな瞳は、けして瞬かない。
何かを拒むように、真っ直ぐと陸遜を見つめる。
泣くのをこらえている人間の瞳は、瞬かない。
少年は、よく知っていた。
「大丈夫よ」
もう一度、尚香は同じ言葉をくりかえす。
自分自身に言い聞かせるように。
見上げたその姿は、とても小さく見えた。
「私には、大丈夫のようには見えません」
陸遜は緑の瞳を見つめ返した。
今まで瞬かなかった瞳が、陸遜の視線をさけるように伏せられた。
頬に涙が伝う。
ポロポロと透明な雫がこぼれるだけで、嗚咽はもれない。
静かな分、痛ましく思えた。
「大丈夫よ」
その声は、力ない。
「もっと、頼ってください」
陸遜は階を一段上る。
「あなたよりも、背が高くなりました」
庇われるほど幼くも、非力でもない。
自分よりも、ほんの少し小さい少女を見つめる。
「だって、あなたは年下じゃない」
尚香は雫を宿したまつげが瞬く。
「そればかりは、埋められない差ですよ」
陸遜は苦笑をにじませ、言った。
どんなに努力しても、歳だけは埋められない。
「だって、年下には頼れないわよ」
言葉は明快で、理由は切なかった。
「だったら、あなたは女性で、私は男です。
頼りになりませんか?」
涙にぬれた緑の瞳が陸遜を見つめる。
「でも、頼れないわ。
私のほうがお姉さんだから」
尚香は微笑んだ。
「それでは、一生頼ってもらえませんね。
あなたのお役に立ちたいと思っているのに」
陸遜は微苦笑した。
そっと手を伸ばし、ぬれた頬にふれる。
力を入れすぎて壊してしまわないように、意識しながら、涙を袖でぬぐいとる。
「何があったのですか?」
「なんでもないわ」
「姫は嘘をつくのが下手ですね」
「ありがとう」
少女は礼を言い、少年の手をやんわりとのける。
「陸遜には関係のないことよ」
「手厳しい」
胸のうちで、盛大なためいきをつく。
「私自身の問題だから、巻き込むわけにはいかないわ。
兄様に怒られちゃう」
「姫のために、お叱りをいただくのでしたら、光栄ですね」
「その後、私も怒られるのよ」
「仲良く連帯責任でいきましょう」
「嫌よ。
だから、陸遜には相談しないわ」
尚香はクスクスと笑う。
その笑顔に、陸遜は安堵した。
使い古された言い回しだが、いつも笑顔でいて欲しい。と思う。
「でしたら、誰にするのですか?」
「訊いてどうするつもり?」
「後で、その人におしゃべりになってもらうだけです」
陸遜は真剣な面持ちで言った。
「やっぱり。
余計に教えられないわよ」
すっかり元の調子に戻った少女は、朗らかに言う。
今は頼りにしてもらえなくてもいい。
少女の悲しみを軽くできるのなら、それだけでもいい。
「陸遜と話していたら、泣きたい気分がどこかへ行っちゃった。
ありがとう」
「お役に立てたようで、幸いです」
「陸遜はいつも役に立っているわよ。
だから、気をつけてるの。
私のほうがお姉さんだから、陸遜に負担をかけすぎないようにって。
迷惑でしょ?」
尚香は微笑んで言う。
「いいえ。
迷惑じゃありません」
「そんなことばっかり。
本当にありがとう。
助かったわ」
明るい茶色の髪が揺れる。
軽い音と共に、少女は階を下りていく。
陸遜は慌てて振り返り、その背中に安心した。
最初見たときにあった、空気は霧散していた。
「次は頼ってくださいね」
陸遜は呟くと、階を上った。
かつて日記で投下したSSの焼き直し
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