快復


 ようやくのケガは治った。
 熱も引き、傷もちゃんとふさがった。
 寝台に縛りつけられた日々は、本人が思うよりも長かった。
 ちょっとした運動をしても平気だろうと、やっと許可が下りた。
 そうなると居ても立ってもいられなくなるのが、この少女。
 元気なのが取り柄のは、瞳を輝かせて走り出そうとした。
 が、それを侍女の璃が止められた。
「今日から花嫁修業ができますね」
 年長の女性は、にこやかに言った。
「え……」
「まさか、さん。
 嫌だなんておっしゃいませんよね。
 だって、司馬家の奥方になるんですもの」
「そ、その」
「それともさんは、作法が完璧ですの?
 教師が要らないほど。
 旦那様に恥をかかせないという自信がありますのね。
 でしたら、よろしいんですのよ。
 遠慮なくおっしゃってくださいね」

 勉強しなきゃ、ダメだよね。
 うっ。
 ようやくナイショにしないで、外遊びができると思ったのに。

「ゴメンナサイ。
 ……勉強します」
 はうなだれた。
「とりあえず、今日は屋敷の中を案内しますわ。
 迷子になられても困りますから」
 璃は、笑顔を貼りつけたまま言った。

    ◇◆◇◆◇

「こちらが旦那様の書斎です」
 広くて、日当たりの良さそうな部屋で、璃は言う。
 調度類がいかにも高そうで、お金持ちが好きそうな部屋だった。
 司馬家の当主らしい部屋……だったものが、の目の前にあった。
 
 汚い!
 司馬懿様のお城の書斎は、あんなに片付いてるのに。
 むしろ、ちゃんとしてないとキレるのに。
 どうして、こんなにぐちゃぐちゃなの〜!
 司馬懿様って二重人格なんだっ!
 そうに違いない。
 だって……。

「さわると怒られますから、物を動かしたりはしないでくださいね」
 と言いながら、テキパキと璃は道を作っていく。
 そう、床にも書簡だの、竹簡が転がっていて、足の踏み場がないのだ。
「え。
 怒られるって。
 いいんですが? さわって」
 は思考を中断する。
 年上の女性は、容赦なく窓を開ける。
「汚いんですもの」
 笑顔のまま璃は言った。
「え、そうですけど。
 司馬懿様、怒るのに、良いんですか!?」
「このままでは歩けませんでしょう?」
「そうですね」
 と、うなずいてからは混乱する。

 歩けないけど。
 竹簡に足跡なんて残っていた日には司馬懿様、怒るだろうけど!
 でも、だからって部屋に勝手に入って、片付けちゃっていいの?
 こんなに散らかってるのって、つまり司馬懿様の趣味なんだよね……?
 え、でも、お城は片付いていて。
 あれぇ?

「璃さん。
 司馬懿様に怒られるの、怖くないんですか?
 クビになっちゃうかもしれませんよ」
「まあ。
 でしたら、私は数年前にクビになっていますわね」
 璃は崩れそうになっていた書卓の上に、拾い上げた書簡たちを載せていく。

 司馬懿様に怒られるの、怖くない人っているんだぁ。
 ……そりゃあ、キレやすいけど。
 璃さんみたいな人がたくさんいれば、司馬懿様の侍女とか困らないんだろうなぁ〜。
 みんなすぐ辞めてくし。
 司馬懿様は「気にしていない」って言うけど。
 でもやっぱり、すぐ辞めていくのは気分が良いことじゃない……から。

 入り口でボーっと立ってるのも暇なので、もつられて竹簡を拾う。
 神経質そうな文字が並ぶ竹簡を巻いていく。
さん、お上手ですのね。
 書生さんのようです」
「へ?
 あ、お城でずっと司馬懿様のお手伝いしてたから。
 こういう仕事は得意です」

 璃さんに褒められちゃった♪
 まさか、こんなところで役に立つなんて思わなかった。
 もしかして護衛武将として役に立たなくても、文官や女官として出仕ができる?
 お城で仕事できなくても、司馬懿様のお役には立てるかなぁ?
 だと嬉しい!

 はニコッと笑い、竹簡を書棚に並べる。
「ではこれからは、この部屋の居心地が良くなりますわね。
 さんにお片づけを手伝ってもらいます。
 旦那様も、さほど文句を言わなくなります」
 嬉しそうに璃は言った。
「はい! 頑張ります」
 はうなずいた。
「本番はこれからです。
 書斎同様に、寝室も酷い有様なんです。
 せっかくこのお屋敷の中で、一番良いお部屋なのに。
 さんのお部屋の何倍も酷いんですわ」
 璃は小さな居間を通り、寝室へ向かう。
 少女はその後ろをひょこひょことついていく。
「私の部屋ってヒドイんですか?」
 は疑問を口にした。
「あら、失礼。
 そういう意味ではありません。
 さんのお部屋は『現在』お屋敷の中で、一番良いお部屋です。
 本来の一番であるべきお部屋がこの有様ですから」
 璃は言いながら衝立の奥に消える。
 慌てては追いかける。
 司馬懿の寝室は、やはりというか、予想通りというか、竹簡であふれかえっていた。
 書斎には収納スペースである書棚があった分、まだマシだった。
 卓の上に置ききれるはずもなく、寝台の上にまで竹簡があった。
 しかも、読み途中なのか、広げっぱなしものすらある。

 寝るときまで読んでるのかなぁ。
 見たことのある文字の並びのような。
 どっかでこの文面を読まされた気が……。
 あ、これ、兵法だ!
 司馬懿様って努力家だよね〜。
 何も寝るときまで、仕事しなくても……。
 それとも魏軍の軍師って大変?
 ……殿があんなのだし、大変なのかも。
 
 少女は寝台の上の竹簡を拾い、綺麗に巻く。
さんは顔に出やすいんですのね。
 何を考えてるのか、わかりやすいですわ」
 クスクスと笑う声に、は顔を上げた。
「え!
 私、何かしゃべってましたか!?」
「顔に全部書いてありますわ」
 璃は言った。
 少女は頬に手を当てる。

 最近じゃ、思っていることを垂れ流したりしなくなって、いい感じだと思ってたのに。
 口だけじゃなくって、顔まで気をつけないといけないの!?
 そんなの、無理〜!!

「褒めてますのよ。
 旦那様は、そんなところに惹かれたのですのね」
「ひ、ひかれるってなんですか!!
 ちっ、違います!
 そんなんじゃ、ないんです!
 だって、司馬懿様は……」

 あれ?

「飽きないって、言われました。
 もしかして、そういうことでしょうか……?」
 は馬車中で聴いた言葉を思い出す。
 確かに、司馬懿は「飽きない」と少女に言ったのだ。
 その前後に青年にしたら頑張った甘い言葉があったはずなのだが、少女の記憶の底に沈められて、しっかりと鍵がかけられている。
「司馬懿様って、退屈なの嫌いなんですね。
 ちょっと意外です」
 は本気で言った。
「まあ」
 璃は目を丸くしたが、特に何も言わなかった。
 そのほうが面白そうだったからだ。

    ◇◆◇◆◇

 今日も屋敷の主の帰りは遅い。
 あくびをかみ殺しながら待っていたのだが、はうたた寝なんかをしてしまった。
 お帰りなさいと出迎える予定だったのだけれど、現実はそんなものである。
 少女が夢の中で散策中だったところに司馬懿は帰ってきた。
 青年が何の気なしにした行動によって、は飛び起きることになったりした。
「!」
 脊髄反射というものだ。
 普通の人間だったら、上半身を起こして、周囲を確認するところだろう。
 少女は文字通り飛び起きた。
 敵来襲の音を聴いた兵士のように、寝台に立ち上がり、かがんだところで、目が覚めた。
「あれ、司馬懿様……?」
 大きな目を瞬かせ、座り込んだ。
 前転ができるような広い寝台に、司馬懿がいた。
 いた、だけならよくあることだが、寝転んでいた。
 というか、どう見ても眠っていた。
「お帰りなさい……です」
 困惑した少女は、とりあえず予定をこなしてみる。
 うるさそうに琥珀色の瞳がを見上げた。
 昼寝中の猫が義理で目を開けて、人間を見るような、そんな趣だった。
「怪我が治ったようだな」
 司馬懿は面倒くさそうに上体を起こした。
 寝る気だったようで、格好が寝着な上に、髪もほどいていた。
 叩き起こしたのは司馬懿のほうなのに、まるでが叩き起こしたような表情を青年はしていた。
「はい、おかげさまで!」
 は言った。
「それは良かった」
 司馬懿はそういうと、が起き上がったせいで、すっかりめくれてしまった布団を引く。
「って、司馬懿様。
 まさか、ここで寝るんですか!?」
 寝かせまいと、は慌てて布団をつかんだ。
「この屋敷は私のものだ。
 どこで寝ようと、私の勝手だろう」
「いや、そうですけど!
 だからって、ここで寝なくても良いじゃないですか!」
「何か、問題があるのか?」
「問題ですか……。
 えーっと、その」

 問題、問題。
 ないような気はするけど。
 でも、一緒に寝るなんてそんな!
 ダメで。
 あれ? なんでダメなんだろう。

「寝心地の良い部屋で寝て何が悪い」
「それは自業自得です。
 司馬懿様がご自分で、寝室を散らかして……って」
 は口に手を当てる。
 覆水盆に返らず。
 しゃべってしまったことへの取り返しはつくはずがない。
「片付けたのはお前か」
 冷え冷えとした声が言った。
 部屋の中が一気に氷点下まで下がったような気がした。
「言い訳があるなら、聞こう」
 司馬懿は寛大なことを言う。
「仕方がないんです」
 は衣の裾をいじりながら言う。
「司馬懿様の部屋が汚かったから」
 少女には、十分な理由だった。
「それが理由か」
「だって、詐欺ですよ!
 お城はあんなに片付いているのに、自分の家は汚いだなんて」
 は真剣に言った。
「整理整頓されていない部屋を見つけるたびに、片付けるつもりか?」
 司馬懿は楽しげに尋ねる。
「ダメなんですか?」
 チラッと少女は青年を見る。
 意地悪げな表情で
「苦労するだろうな」
 司馬懿は言った。
「って、司馬懿様、何部屋、汚くしてるんですかっ!?」
 思わずは叫んだ。
「何も無秩序に散らかしているわけではない。
 どこに何があるのか、わかっている」
「床が見えなくなるぐらい物を積むのは、どうかと思います」
「片付けの許可をくれてやろう。
 書斎の使い心地が上がっていたからな」
「本当は寝室も全部、片付けちゃうつもりだったんですよ。
 でも種類が多すぎて、分類してるうちにお日様が沈んじゃったんです。
 だから、明日もやらないと……。
 って。
 良いんですか? 片付けても!?
 他人にさわられるの嫌いって、璃さんが言ってましたよ」
「お前に片付けの才能がある、ということだ」
「本当ですか?
 頑張ります!」
 嬉しそうには笑った。
 これでもう『役立たず』ではないのだ。
 護衛武将はできないけれど、ちゃんと司馬懿の役に立てるのだ。
 それは少女にとって、大きな喜びだった。
「そうか」
 司馬懿は掛け布団を引いた。
「って、司馬懿様!
 何でここで寝ちゃうんですか!?
 この件は、解決していません!」
「自分の頭で考えろ。
 使わないと、馬鹿になるぞ」
「え……。
 それは困ります。
 ただでさえ、馬鹿なのに……。
 司馬懿様、寝ちゃうんですかっ!?
 ちょっと待ってください!」
 当然ながら、の願いは無視された。
 司馬懿は糸が切れたように、眠りについた。
 不健全な人間でも、すでに寝るような時間だ。
 つい、うたた寝なんかをしてしまった人間以外は、眠くなるというもの。
 寝入ってしまった司馬懿をどうにもできずに、少女は呆然とする。

 でも、一緒に寝るって、良くない気がする。
 あ、私が退けばいいんだ!
 別に寝台じゃなくっても寝れるし。
 凍結した地面に比べたら、どこでも快適〜♪

 ふかふかの布団にやや未練があったが、は寝台から降りようとして……。
「!」
 行動を妨害された。
 細い薄紅の帯がピンッと宙に張っていた。
 片方はの胴に、もう片方は司馬懿の手に。
「司馬懿様〜!」
 は半泣きになる。
 司馬懿の手から帯をもぎ取るという選択肢もなくはなかった。
 けれど、上官に危害を加えるというのは、あってはならないことだ。
 護衛武将になるときに、それは徹底される。
 身骨に叩き込まれるのだ。
 少女は、仕方なく寝台に腰を降ろした。


 は睡魔に負けるまで、そうしていた。
 結論からいえば、翌朝にもう一騒動が起きることになる。
 ただし、屋敷の者は、誰も少女の味方にはなってくれなかった。

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