挨拶


 そこはとてもあたたかくて、居心地が良かった。
 いつまでも、そこにいたかった。
 まるで、冬の寒い日に、日向ぼっこをするように。
 とてもとても、気持ちが良かった。


 眠いぃ〜。
 ……あと、ちょっと……。
 お日様、……もう、少し……待って。
 うーーん。

 まぶたを通して日差しを感じた。
 もうすぐ日が昇る。
 意地汚く眠りをむさぼろうとは画策する。
 目が覚めるまでの、わずかな間。
 気持ちの良い時間だった。
 元来、寝起きは悪くない。
 少女は数瞬後には、目覚めるはずだった。
 ふっ、と気配が動いた。
 殺気の一つでもこもっていれば跳ね起きただろうが、その気配はやさしく、穏やかだった。
 朽ちた葉のような深い香りが鼻をくすぐる。
 そのため、は再び眠りに沈み込んでいくことになった。
 次に、少女が目覚めたのは、それから数分後。
 何やらバタバタとした雰囲気の中だった。

 う……うん?
 何だか、賑やか…………って、今、何時!?
 遅刻!!
 寝坊しちゃったよ〜っ!!
 今日の訓練って

「あれ?」
 飛び起きた少女は、大きな瞳をパチクリした。
 やたら質の良い布団に、上品な部屋のつくり。
 護衛武将が与えられる部屋とは、まさに雲泥の差があった。
「ここって」
 は呟く。
「何の訓練をするつもりだ?
 裁縫か? 料理か?」
 他人を小馬鹿にしたような声が降ってくる。
 落ち着いた低い声に
「司馬懿様」
 は呼び慣れた名を綴る。
 弱々しい朝の光の中、排他的な空気をまとう青年がいた。
 隙なく礼服を身につけた姿は、清廉な政治家というよりは、主人公に打ちのめされる悪役。影の組織のbQという感じだった。
 これほど清々しい朝が似合わない人物はいないだろう。
「いつから、そんなに寝起きが良くなったんですか?
 朝が来るたびに不平を垂れて、戦場なんかに出た日には、訓練している兵士の声にも文句をつけていましたよね〜。
 お日様に何か言っても無駄なのに、よくも続くものだって、ちょっとした賭けになっていたって言うか、殿が率先していたんですけど……。
 あ、私は賭けてませんよ。
 だって賭け事って、胴元が勝つようにできているんですよね!
 甄姫様に習いました♪」
「ほう。
 お前の口は、今日も絶好調のようだな」
 司馬懿は皮肉げに笑う。
「はっ!!
 忘れてください〜!!
 寝ぼけるなんて、誰でもやることじゃないですかっ!
 あ、司馬懿様はしないかもしれないですけど。
 私は凡人なんです。暗愚なんです。
 だから、見逃してください〜!!」
 は青年の衣をつかみ、必死に訴える。

 殿とか、甄姫様にバレたら怒られる〜。
 だって、殿ってああ見えても、曹魏の最高権力者だし。
 クビとか言われたら、私…………。
 ん?

 少女は目を瞬かせる。
「自らの愚かさを訴えるとは、珍しい。
 相も変わらず、浅はかさだな。
 ……うん? 何があった?」
「私、もう……」
 は一つのことにたどりつく。
 未だに慣れないことに。
 黒い瞳が司馬懿を見上げる。

「護衛武将……じゃないんですよね」

 16歳のときに、仕官して、それからずっと護衛武将だった。
 来る日も来る日も、護衛の任だけを考えてきた。
 体を鍛えるのも、武芸を磨くのも、兵法を学ぶのも。
 全部、全部、上官のためだった。
 戦場で役に立ち、やがて……その身を盾にして、死ぬためだった。
 それ以外の生き方なんて、忘れてしまった。
「救いようがないほどの馬鹿だな」
 司馬懿はためいき混じりに言った。
「……だって。
 私、司馬懿様のお役に立てなくって……」
「護衛武将だけが生き方ではあるまい。
 運良く拾った命だ」
 冷たい指先がの頬を撫でる。
 琥珀のような切れ長の双眸はとても綺麗だった。

 だから、何だか泣きたくなるような。
 申し訳がなくって、どこにも居場所がないような。
 そんな気がして。

「大切にしろ」

 その言葉がとてもやさしかったから。
 もっと、胸が苦しくなって。
 慰めてくれる手が気持ちが良くって。

「あれ?
 ここ、司馬懿様……。ん?
 あー!!」

 は昨夜のことを思い出し、布団ごと司馬懿から後ずさった。
 青年の機嫌が微妙に変化したことを……少女が気がつくはずも……なかった。
 自分のことで手一杯だった。
「どうして、私、寝台で寝てるんですか?
 むしろ、ここ。
 私の部屋ですよね!
 ……寝ちゃったんだ、私。
 ちょっとショック〜。
 床で寝ようって思ったんだけど、帯が……」
 少女は一つずつ振り返る。
「あれ、あの記憶は何?
 夢?
 起きようとしたら、誰かに声をかけられたような」
 は、刺繍が素晴らしい掛け布団を眺めながら、ブツブツと呟く。
「声ならかけたが?」
「あ、なーんだ。
 司馬懿様だったんだぁ。
 じゃあ……って、解決になってませんよ!!
 だって身近に感じた、あのあったかさは何なんですか?
 人肌って感じの」
 少女は顔を上げる。

 もしかして。
 ……もしかしなくても。
 あれって司馬懿様?
 ど、どうしよう!!
 湯たんぽ代わりにしちゃったーっ!!

「スミマセンっ!
 もうしません〜!!
 許してくださいっ!!」
 は言った。
「話に付き合っていたら、朝議に間に合わなくなるな」
「はっ!
 スミマセン!
 ホントに役立たずで……。
 何ですか?」
 手招きされ、はひょこひょこと寝台の端までやってくる。
 文官特有の細い指先がしっかりと少女の肩をつかんだ。
 きょとん、と。
 少女は無防備にその瞬間を待った。

 ほんの一瞬。

 頬に触れた感触は、指とは違うもので。
 の血は沸騰したかのように、体を駆け上る。
 おしゃべりな少女が言葉をなくして、かつての上官を見上げる。
「行ってくる」
 青年は余裕の表情で言った。
 の頭の中は、真っ白になってしまった。
 パタンと閉じた扉にようやく、言葉にならなかった声を上げた。

   ◇◆◇◆◇

さん。
 朝からなんて声を上げているのですか?
 あなたは、司馬家の奥方になる方なのですよ」
 朝の挨拶代わりに、璃が言った。
 司馬懿が出て行って「すぐ」のことである。
 部屋の前の廊下か、隣の部屋で待機していたとしか思えない、速さとタイミングだった。
「だ、だ、だ、だって……!」
「旦那様と何かありましたか?」
 璃はテキパキと朝の支度を整えていく。
 部屋の換気だとか、洗顔用の水をたらいに注ぐとか。
「何かって、何かって!!
 く、口が……ほっぺたに……!!」
 それ以上に具体的なことは、には言えなかった。
 他人がそんなことをしているのは数度目撃したことがある――ああ見えても、殿とその妃の仲は良い――が、自分の身に降りかかってくるとは、全く、これっぽっちも、露にも思わなかった少女である。
 歳よりも幼い反応は、仕方がなかった。……多分。
「まあ。
 おめでとうございます」
「おめでとうって、何がおめでたいんですかっ!?」
 は本気で言った。
「それでさんは、お返しをしたんですか?
 駄目ですよ。
 ちゃんと、さんからもしないと」
 ニコニコと璃は言った。
「お、お返しって。
 まさか……!」
「減るものじゃありません。
 それに仲良きことは美しき哉。ですわよ」
 璃は布団を引っぺがす。
 硬直する少女の背を押し、洗練した仕草で洗顔を勧める。
「へ、減るって。
 だって、司馬懿様と私がですよ!!
 変ですよ!!」
「少しも変なことではありませんわ。
 だって、さんは旦那様の未来の妻ですもの。
 バンバン子どもを産んでもらわなければなりません。
 これぐらいで驚いていたら、先に進めませんわよ」
 璃は言った。

 だって、朝、いきなり……。
 あんなことされて。
 へ。待って、先って何?
 ……訊いちゃダメ!
 何か、絶対、スゴイことが待ってる……ような気がする。
 だって、璃さん、笑ってるし。
 璃さんは味方になってくれると思ったけど。
 あれぇ?
 みんな司馬懿様の味方で、私が悪いの!?
 司馬懿様の屋敷なんだもん。
 味方に決まってる!

 少女は考えるのを止めた。
 璃に勧められるままに朝の支度をして、書斎の整理をして、やがて日が暮れていくのだった。

   ◇◆◇◆◇

 は鬱々とした気分で夜を迎えた。
「はぁ〜」
 つくためいきも勢い重いものになる。
「どうしよう」
 小さな卓の上に肘をつき、呟く。
 はっきり言って、どうしようもない。
 思考するだけ無駄なのだが、少女はいじいじと考え込んでいた。

 司馬懿様のこと、嫌いじゃないけど。
 好き。
 一番、好き。
 今まで知り合った人たちの中で、一番。
 司馬懿様がいなかったら……って、想像できない。
 でも、これとそれとは、別で〜。
 どうしよう。

「はぁ〜」
 は飽きもせずに、ためいきをついた。
「小人の考え休むに似たり」
「あ、それ聞いたことあります。
 馬鹿は考えても無駄ってことですよね!」
「何を考えていた?」
「決まってるじゃないですか。
 司馬懿様のことです……」
 の心臓が一瞬、止まる。
 ドクンッと大きな音を立てて、再び動き出す。
「って」
 恐る恐る首を動かして、見上げるよりも先に制される。
 不自然な格好で少女は止まる。
 朽ちた葉にも似た墨の香りに包まれている。
「いつの間に帰ってきたんですか?」
 飛び出しそうな心臓をなだめて、は訊ねる。
「出迎えの一つも、できないようだな」
 呆れたような声が降ってくる。
 距離が近すぎる。

 振り返っちゃダメ!
 絶対、後悔するから!!

「お帰りなさいませ」
 やっとのことで少女は言った。
「それだけか?」
「そ、それだけって!!
 く、く、く……。
 私には、やっぱりできません〜!!
 司馬懿様の奥さんなんて、無理です!」
 少女は身を堅くして、叫んだ。
「何の話だ?
 その件について、お前と話し合うつもりはない」
 司馬懿は言い切った。
 断言や命令に弱いところのある少女だ。
 はうなだれた。

 いっぱい、たくさん考えたけど。
 璃さんが言ってたけど。
 そんなこと、やっぱり……。

 今朝感じたように、ぬくもりが伝わってくる。
 抱きしめられている、のとは違う。
 包み込まれている。
「迷惑そうに出迎えられるために、お前をここに置いているわけではない。
 嬉しい、ぐらいは言えんのか」
「へっ?」
 はパチパチと目を瞬かせる。
「そんなことで良いんですか?」
「どんなことをしてくれるつもりだったんだ?」
 黒い瞳と琥珀の瞳が宙で出会う。
「司馬懿様がしたように……。
 璃さんが……お返しって。
 だから」
 困っていたんです、と、少女は歯切れ悪く言う。
 司馬懿は微苦笑を浮かべる。
「ほう」
 冷たい指先が少女のおとがいをつかむ。
 頬に感じた……。
「……っ!」
 は息を呑む。
 叫びになりそうだったものを喉で殺す。
「ならば、次に期待しよう。
 くれぐれも私を裏切ってはくれるなよ」
 甘いというよりも、底冷えするような剣呑な言葉だった。
「は、はい!」
 条件反射。
 思わず背筋を伸ばして、返事をしてしまう。

 あ、しまった。
 言っちゃった〜っ!!

 少女は己の口を手でふさぐ。
 眉をひそめる。
 忘れてください、と頼んだところで、青年が忘れてくれるはずもなく。
 墓穴を掘ってしまったことをどっぷりと後悔するのであった。

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