帰宅


 まだ夜の始まり。
 日が暮れたばかりの時分、司馬懿は自分の邸に帰りついた。
 かつての青年を良く知る人々は、顔に出さないものの、その変化に驚いた。
 なかなか家にいつかない、稀に帰ってきても真夜中を過ぎた頃。
 だったのに、今の司馬懿は仕事が終われば、家に帰ってきた。
 どうしても仕事が終わらないときは、仕事を持ち帰ってくる。
 そこまでして、家に戻ることに固執した。

 もちろん、それにはわかりやすい理由があった。

 部屋は、薄暗く、蝋燭の数も少なかった。
 よく見れば蝋燭の芯をわざと切ってあることがわかる。
 室内は居心地の良い温度で保たれている。
 花の香りに混じって、薄荷の匂いが漂う。
 医学に知識のある者であれば、この部屋は手当ての必要な人間の寝室だ、とすぐさまわかるだろう。

 司馬懿は物音に気をつけ、寝台に近づく。
 あの尊大な軍師が、気を使っているのだ。
 城の面々がこの姿を見ることができたのなら、面白おかしく脚色したのに違いない。



「ん……」
 甘えるような響きの声と共に、小さな体がもぞもぞと動き出す。
 目覚めが近いのだろう。
 幸せそうな微笑が、苦悶に変わる。
「起きるなら、起きろ」
 司馬懿の指先は、少女のすべらかな頬をなぞる。
 惰眠をむさぼろうと無駄な努力をする身体は、指先から逃れようとする。
 が、指先は頬からあごをたどり、細い首筋から先のまろやかな曲線をなでていく。
「ひゃ、冷たいです!!」
 は飛び起きて、司馬懿をにらみつけた。
 夢から叩き起こされた元・護衛武将は不機嫌だった。
「ほお、ずいぶんと偉そうな態度だな」
「せっかく、良い夢見ていたのに……。
 あと、ちょっとだったんですよ。
 あとほんの少しで、お菓子を完食できたところだったのに!」
 は司馬懿から背をむけ、毛布の端をいじりだす。
「司馬懿様、ヒドイです……。
 あんなにお菓子を食べる機会なんて、そうそうないのに」
「夢だろうが」
 青年は寝台の上に腰を下ろす。
「良いんです、夢でも!
 現実じゃ達成できなさそうだし」
 未練がましく、は言った。
 どうにも自分の立場というものを理解していない少女だった。
 無垢で、愛らしい仕草ではあるが、司馬懿の癇に障った。
 強引に細い体を抱き寄せた。
「ひゃっ」
 黒い瞳がようやく青年を見る。
「叶えてやってもいいのだが、お前の態度しだいだな」
「え?
 本当ですか?」
 現金な少女は、パッと顔を輝かせる。
「たくさんのお菓子なんですよ。
 食べきれないぐらい、たくさんなんですよ。
 テーブルいっぱい、お菓子が並んでるんです。
 それも一種類じゃなくて、色んな種類があって、とにかくすごくたくさんなんです」
 は瞳をキラキラさせ、楽しそうにしゃべる。
「もちろんだ」
 司馬懿は寝乱れた黒い髪を手櫛ですく。
 絹のような光沢と手触りは、涙ぐましい侍女の努力の成果だった。
「そんなにたくさんのお菓子を独り占めにするんです♪
 誰にもあげませんよ」
「好きにしろ」
 珍しいこともあるのだ、と司馬懿は思った。
 まだ夢の中にいるのか、それとも軽く興奮状態で先が見えていないのか。
 現実に、それだけの菓子を目の前にしたら、少女は配り歩いていそうだったが……。
 未来のことをあれこれと想いをめぐらせるのは、楽しいことだ。
 司馬懿は水を差さなかった。
「どうして、そんなやさしくしてくれるんですか?」
 はようやく疑問を持った。
「は、もしや。
 撒き餌ですか!
 これを囮に、何かさせる気なんじゃ……。
 私は、どんなにお菓子を用意されても、あんなことや、こんなことはしませんからね!!」
「具体的に、あんなこととこんなことを聞いておこう。
 一体、どういう意味だ」
「あんなことや、こんなことです。
 特に意味はありませんよ。
 司馬懿様が要求してくる様々なものです!」
「存外、賢いな」
 癖のない髪の手触りを楽しみながら、青年は言った。
「司馬懿様のおかげです。
 すっかり、疑い深くなりました。
 これが大人になるって言うことでしょうか」
 大真面目な顔つきで少女は言った。
「交換条件というものを知っているか?」
「…………。
 お菓子と何が引き換えなんですか?」

「怪我の完治だ」

「へ。
 そんなことで良いのですか?」
「快気祝いに、食べきれないほどの菓子を用意してやろう」
「司馬懿様に言われなくっても、怪我は治す気満々ですよー!
 いつまでも、寝っぱなしなんて、つまらないですから」
 ニコニコと少女は笑う。
「その割には、我慢が足りないようだな」
「……まさか……。
 ど、だ、どうして知ってるんですか〜!
 今日、庭に出て、砂遊びしていたって!!
 ちゃんと、遊び終わった後、地面は元に戻しておいたし。
 まさか璃さんから聞いたんですか?
 司馬懿様、お仕事行って、わかるは……。
 ……誘導尋問ですか!?」
「やっぱり、外に出ていたのか」
「引っ掛けるなんてヒドイです〜!
 そういうことは、お仕事だけにしてくださいよ!!」
「この邸は、私のものだ。
 常に、護られていることを忘れるな」
 司馬懿は少女の頬をなでる。
 薄紅色に上気した頬は、何も興奮したためだけではあるまい。
 小さな体の内に、わだかまる熱が表面化しただけだ。
「……護られる?
 何か、違和感のある言葉なんですけど。
 私が司馬懿様を守るのは、フツーですけど。
 その逆って……変です」
 はキッパリと言った。
「まだ、私を守る気があったのか……」
 司馬懿はためいきをついた。
 黒い瞳は、きょとんと見上げる。
「馬鹿め」
 青年はつぶやいた。
「私、変なこと言っちゃいました?
 あ、いつも言ってるとか、そんなことは言わないでください。
 そうじゃなくて。
 えーっと、あれぇ。
 こんがらがってきました」
「怪我人は、大人しく介護を受けていればいいのだ」
「それはそうですけど。
 一方的にお世話になっていると、悪い気がしませんか?
 私、何にもできないから」
 もう、護衛武将じゃありませんから。
 声が心細さを訴えていた。
 護衛武将であることが、少女のすべてであった。
 それが失われた今、は何一つ持っていない貧相な小娘だった。
 だから、少女は泣き出しそうなのだ。
 寝着越しに伝わってくる怯えにも似た震え。
「何もできない、か。
 本当にそう思っているようだな。
 何の価値もない女を妻にするほど、酔狂ではないつもりだが?」
 青年は微苦笑する。
「私、司馬懿様のお役に立っていますか?」
「お前といる限り、退屈しないだろう」
 司馬懿の言葉に、は微笑んだ。



 家に帰ることに固執する。
 その理由は、司馬懿の想いに気がつかず、幸せそうに話すのだ。
 傍にいられることが嬉しい、と。
 何も気づかずに、司馬懿が最も欲しがる言葉を投げてよこすのだった。

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