「司馬懿様ぁ」
体の大きさに合わない男物の袍を着た少女が、ひょこっと顔をのぞかせる。
名を呼ばれた青年は不機嫌にを見やる。
己の護衛武将『だった』少女を。
馬車のすぐ傍、背の低い少女は爪先立ちで、司馬懿に話しかけてきたのだ。
「もう起き上がれるようになったのか。
ゴキブリ並みの生命力だな」
司馬懿は言った。
「はい。
すっかり元気になりました♪」
ニコッとは笑う。
そう言った少女の頬は常によりも赤い。
まだ熱がある証左だった。
「こっちへ来い。
大きな声で話すのも面倒だ」
司馬懿はためいき混じりに言った。
「は〜い☆」
はその返事の元気さとは裏腹に、のろのろ司馬懿の隣に座る。
あれほどの大怪我だ。
一晩寝たぐらいで、全快するわけがない。
司馬懿は手近にあった長袍をその小さな肩にかけてやる。
「へ?」
熱に浮かされた黒い瞳が青年を見る。
「ふん」
司馬懿はついっと目を逸らした。
「ありがとうございます!」
嬉しそうには言った。
それと、同時に馬車が走り出す。
曹魏の都まで今しばらくかかる。
できるだけ早く、と思ったところで行軍速度は変わらない。
「それで、何の用だ?」
「一晩、考えたんです。
ほら、司馬懿様が昨日言ったこと。
で、よく言うじゃありませんか〜。
上手い話ほど、裏があるって。
それにお茶汲みの条件とか、ちゃんと聞いてませんでしたから。
ただ働きだとしても、衣食住が保証されている場合と、それすらされていない場合じゃ違いますし!
契約を交わす前にはきちんと話を聞いておかないといけないと思ったんです!!」
ペラペラとは言った。
大怪我をして、熱が引かない身で、わざわざ考えたらしい。
青年の脳裏に過ぎった言葉は『馬鹿の考え休むに似たり』だった。
「なるほど」
司馬懿はためいきをかみ殺す。
「それで、どれぐらい保障してくれるんですか?」
「衣食住の心配はないな。
それに弟妹にも学が必要だろう。
病気がちな母親に、医師もつけてやろう。
都に呼び寄せるといい」
「え!?
本当に良いんですか?
そこまで、面倒見てもらっちゃって……。
はっ!
もしや……」
「何だ?」
司馬懿は少女を見る。
黒い瞳は熱のせいでもなく、潤んでいた。
「もしかして、お茶汲みっていうのは、ただの口実で……。
他にも仕事があるんですか!?」
「当然だな」
青年は意地悪く微笑んだ。
「ヒドイですよ!
最初に楽そうな用件で人をうなずかせておいて、徐々に要求をグレードアップさせていくなんて、悪徳商法そのままです!!
司馬懿様がそんなことをするなんて……。
しそうな気がしてたけど、実際するなんて、ひ、ヒドイです!!」
は言った。
「お前の一生の面倒を見てやるんだ。
安い取引だと思うが?」
手を伸ばし、少女のすべらかな頬をそっとなでる。
常よりも高い体温に、ギクリッとする。
あと少しで、失われていたかと思うと、今ここに少女が存在することを誰かに感謝したくなる。
「司馬懿様の手って冷たいですね。
気持ち良いです〜」
はヘラッと笑う。
「って、そうじゃなくて!
お茶汲み以外に何するんですか?」
「選択の余地が自分にあると思っているのか?
だとしたら、ずいぶんと間抜けだな」
「……。
ちょっとぐらいは、私の意志とか尊重されたら、良いかなって……。
すみません。
なんでもないんです〜」
「私の傍はそんなに不満か?」
「そんなことはありません!!」
間髪入れずの即答が返ってくる。
素直な好意だった。
これまで気がつかなかったのは、己の気持ちに目隠しをしていたからだろう。
自分自身の想いから目を逸らし続けていたため、視野が狭くなっていた。
少女の心は、とてもわかりやすい。
「では、問題ないだろう」
司馬懿は微かに笑む。
「えーと。
だって……。
本当によくわからないんです」
鈍感な少女は、司馬懿を真っ直ぐに見つめる。
「もう護衛武将できませんし。
元から、あまり役に立ってなかったかもしれませんけど。
もっと役立たずになっちゃいました。
それに解雇なんですよね。
それで、司馬懿様の傍にいて良いなんて、変です。
他の女官さんみたいにテキパキと仕事できないですよぉ」
「誰が女官として再雇用すると言った?」
「え、違うんですか!?」
「解雇される理由もわかっていないしな。
本当に救いがないほど馬鹿だな」
「ためいき混じりに言わないでください。
本当に自分が馬鹿だって再確認しちゃうじゃないですか」
はしょぼんと肩を落とす。
あまりに無防備な姿だった。
隙だらけの少女をそっと抱き寄せた。
難なく手折られた花は、不思議そうに司馬懿を見上げる。
闇夜のように深い色の瞳は、ぼんやりと青年を映すだけだった。
不安もおののきも、途惑いも、そこには浮かんでいなかった。
「一生、私の傍にいろ」
「どうしてですか?」
透明な玻璃のような魂が問う。
「どうして、司馬懿様は、私に……。
そんな嬉しくなっちゃうようなことを言うんですか?」
まだ、恋の駆け引きを知らない声が尋ねる。
いつでも少女は、飾り気がなく、己の心に忠実で、……嘘をつかない。
「それが私の願いだからだ」
司馬懿は言った。
初めて、黒い瞳に途惑いが浮かぶ。
「だって、そんな……こと。
か、勘違いしちゃいますよ。
私、ほら、馬鹿だから、自分の都合の良いように解釈しちゃうって言うか。
早合点しちゃいます!
……夢、見ちゃいますよ。
そんな風に言われたら」
少女はうつむき、もじもじと長袍の裾をいじる。
「どう勘違いするんだ?」
「……その、あの。
ぷ、プロポーズ……かなって。
ごめんなさい、嘘です、冗談です。
忘れてください!
ちょっと、思いついちゃっただけなんです!
そんなはずないですよね♪
すみません!!」
パッと顔を上げ、はわたわたと大否定する。
その様子があまりに滑稽で、司馬懿は失笑した。
「これから先、飽きなさそうだな」
青年は機嫌良く言う。
「え?
……まさか、その。
本当に?
ゆ、夢……ですよ。
こんなの」
「何故、そう思う?」
司馬懿は問う。
「都合が良すぎます」
泣くのを我慢するような顔をして、は言った。
「天に感謝でもしたらどうだ?
たまにぐらいなら、都合が良すぎてもかまわないだろう」
「だって」
「私の言葉が信じられないのか?」
司馬懿の言葉に、少女はプルプルと首を横に振る。
「夢みたいです。
名前、呼んでもらえただけでも……。
すごい、嬉しくて……。
それなのに、これは夢じゃなくて」
は言葉を詰まらせる。
大きな瞳の端に透明な輝きが生じる。
「」
司馬懿は大切な少女の名を音にする。
「はい」
それは、いつもの能天気な笑顔とは違う、笑み。
哀しみを宿した笑顔で、少女はうなずく。
それにいささか不満を覚えなくはなかったが、司馬懿は諦めた。
時間は、まだたっぷりとある。
そのうち、司馬懿が想像したとおりの笑顔で、少女が返事をする日が来るだろう。
この少女のためなら待つのも、それほど嫌ではない。
「まずは、女性物の服から慣れてもらおうか。
司馬家の嫁になるのだからな」
青年は笑った。
「え!」
「それに裁縫に、料理。
怪我が治ったら、良い教師をつけてやろう」
「えー!!
そ、そんなぁ」
潤んだ瞳では懇願する。
「式までに、全部完璧にしてもらうからな」
「ヒドイですよ!
司馬懿様〜!!」
「努力もしないうちから諦めるような愚昧は、大嫌いだ」
司馬懿は言い切った。
「が、頑張ります」
は折れた。
曹魏の都まで、あと数日。
多くの者が驚く日まで、あと数日だった。