天命 第4話


 が再び意識を取り戻した頃には、魏軍はすっかりと帰り支度をすましていた。
 なかなかの役立たず振りを発揮してしまった。
 気まずそうに少女は上体を起こす。
 上等とは言えないが、それなりに清潔感のある荷台の上に、毛布ごと押し込まれていたらしい。
 すぐ側には、兵糧や武器が積まれていた。
 恐る恐る毛布の中から利き手を引き出す。
 ズキッと、痛みが走る。
「痛い」
 誰もいないことも手伝って、泣き言が漏れる。
 治療済みらしく包帯の巻かれた手をしげしげと見つめる。
 ぼろ雑巾のようになっていた衣服から、女物の服に着替えさせられていた。
 それなりの品らしく、肌触りが良い。
 どっからその服が出てきたのか、誰が着せ替えたのか、とかは、あまり追求しない方が心臓に良いので、考えないことにした。
「はあ、何やってるんだろう」
 は毛布にもぐりなおす。


 次の戦、外されるよね。
 ケガ、ひどいし。
 前のときだって、治るまで時間かかったし。
 ……今度のは。
 うっ、考えちゃダメだ。
 うん、すぐ治る。
 治るったら、治る。


 はギュッと目をつぶる。
 薄々、わかっているのだ。
 今度のケガは、後に響くことになることぐらい。


 ……。
 すっごい、自己嫌悪。
 最悪、クビだよね。
 だって……、やっぱりクビになるんだぁ。
 この場合、労災なのかな?
 退職金ってどれぐらい出るんだろう?


「戦に勝利したのに浮かぬ顔だな」
「今、ちょっと計算に忙しくて……。
 って、司馬懿様ぁ!?」
 はびっくりして、飛び起きる。
 当然、鋭い痛みが体中を駆け抜ける。
 一週間は寝台の上にいないければならない、重症患者なのだ。
 そのことを、すっかり、きっかり、忘れてしまう。
 ……自分自身のことなのに。
「い、……痛くないです」
 大きな瞳に涙を浮かべて少女は言った。
「馬鹿め」
 不機嫌そうに司馬懿は、の隣に腰を下ろした。
 それが合図なのか、荷台がノロノロと動き出した。
 ほろつきなので、周囲の景色は見えないが、車輪の振動は伝わってくる。
 平坦な道を走っているようだった。
「痛みは酷いのか?」
 冬の太陽を凝らせたような色の瞳がを見つめる。
 見慣れているはずなのに、ドキドキして少女は思わず目をそらした。


 な、何で、だろう。
 すっごい、緊張してきた〜!!
 おかしいよ、変だよっ!
 司馬懿様に、いまさら緊張してもムダなのに!!


「大丈夫です。
 司馬懿様、嬉しそうじゃないですね。
 戦に勝ったのに」
 は話題をすり替えようとして、失敗した。
 以前の少女なら、そんな愚かな質問をしなかったはずだ。
 何故なら、司馬懿は戦に勝っても嬉しくない、ということを誰よりも傍で見てきたのだから。
 今の少女は、平素できていた気配りというものが、すっぱりとなくなってしまった。
 それどころでは、なかったのだ。


 ……うっ。
 ど、どうすれば良いの?
 自分の心臓が、自分のものじゃないみたい……。


「お前が怪我をしたからな」
 つぶやくように司馬懿は言った。
「あ、もしかして私、足をひっぱちゃいました?
 司馬懿様の評価下がっちゃいましたよね〜。
 私がこんな有様じゃ……。
 出世の邪魔しちゃって」
 少女は反射的に答え、ヘラッと笑う。
「そんなものは、どうでも良い」
「俗物だっていう意味じゃなくって。
 そのー、責任とか取ることになっちゃったら、私の勝手な判断だって言ってくださいね〜。
 ホントに、何か、司馬懿様には迷惑かけてばっかりで。
 護衛武将なのに」

「安心しろ。
 今日限りで、解雇してやる」

「え?」
 黒い瞳はゆっくりと一瞬きをした。
 ストンと、言葉が胸の中に落ちた。
 冷たい氷のように、けして溶けない氷の化石のように、心に響いた。
 うるさいぐらいのドキドキも、おさまった。
 代わりに……。
「そうですよねー。
 最後まで、役立たずで……」
 声が震えるのがわかった。
 あと一呼吸で言い終わるのに言えない。
 はうつむいた。
 

 やっぱり、クビなんだ。
 仕方がないよね。
 せめて、最後まで笑顔で……。
 あれ、おかしいなぁ。
 どうすれば、笑えるんだろう……?


 白く細い指先が少女の顔を上げさせる。
「すぐ顔に出るな」
「仕方がないって、わかってるんですよぉ。
 ケガしちゃったし。
 もう、……護衛武将として……お役には立てない、ことは」
 やっとのことで、は告げた。
 

 だけど……。
 もう少し、一緒にいたかった。
 こんな風に突然、別れが来るなんて思っていなかったから。
 だから。
 イヤ『だった』。
 とっくの当に、諦めが……ついていた。
 

「今まで、お世話になりました」
 都に戻るまでが残された時間。
 あとどれぐらいあるか、わからないけれど。
 それで、我慢しなければいけない。
 は微笑んだ。


 これから、きっと何度も思い出す。
 忘れることなんてできない。
 私は、この人の命を守ることができた。
 その代価として、名前をちゃんと呼んでもらった。
 一度も、物扱いしなかったこの人を。
 これから、ずっと想っていくんだ。


 それはほろ苦いけれど、嫌いになれない気持ちだった。
 だから。
 これが最後なら。
「私は、司馬懿様の護衛武将で良かったです」
 きちんと言っておこう。
 残らず言ってしまおう。
「すごく、幸せでした」
 これから先、言うことはないだろうから。
「司馬懿様のことが、大好きです」
 少女の頬を涙が静かに伝う。
「それだけは過去形ではないんだな」
「はい」
 はうなずいた。
 もう言葉にならない。
 涙であふれかえって、想いは音にならない。
 にじんで、輪郭がぼやけて見える景色。
 それでも見失いたくないと、は一生懸命に司馬懿を見つめる。

「お前を解雇する理由は単純だ。
 私の判断が鈍る。
 我が軍の大きな損失になるからな。
 だからと言って、他の武将にくれてやるのも気に障る。
 お前は一生、私の傍でお茶でも汲んでいろ」
「……え?」
 は困惑する。
 ちゃんと言葉は聞こえたし、意味もわかる。
 でも……理解できない。
 考えようとすると、思考がバラバラにほどけてしまう。
「救いがないほどの馬鹿には、私ぐらい出来の良い人間でないと相手が務まらぬだろう?」
 司馬懿は意地悪げに問う。
「えーっと。
 それって……」
 少女は、頭の中を総動員して考える。

 考えて、考えて……、涙が止まるほどに考えて。
 ようやくたどりついた答えは、この少女らしかった。
 青年にとって手痛い失策だった。
 時と場所と状況、これまでの経過をわきまえた方が良かった。
 この少女は、どこまでも馬鹿で、能天気で、家族思いで……。
 これは後々まで禍根を残すことになった。
 最たる記憶になる。



「つまり、ただ働きってことですか?」


 もし、これを盗み聞きしている人間がいたとしたなら、笑いをこらえるのも一苦労だっただろう。
 あくまで少女は真剣に尋ねたのだ。

「この馬鹿めがっ!!」

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