が再び意識を取り戻した頃には、魏軍はすっかりと帰り支度をすましていた。
なかなかの役立たず振りを発揮してしまった。
気まずそうに少女は上体を起こす。
上等とは言えないが、それなりに清潔感のある荷台の上に、毛布ごと押し込まれていたらしい。
すぐ側には、兵糧や武器が積まれていた。
恐る恐る毛布の中から利き手を引き出す。
ズキッと、痛みが走る。
「痛い」
誰もいないことも手伝って、泣き言が漏れる。
治療済みらしく包帯の巻かれた手をしげしげと見つめる。
ぼろ雑巾のようになっていた衣服から、女物の服に着替えさせられていた。
それなりの品らしく、肌触りが良い。
どっからその服が出てきたのか、誰が着せ替えたのか、とかは、あまり追求しない方が心臓に良いので、考えないことにした。
「はあ、何やってるんだろう」
は毛布にもぐりなおす。
次の戦、外されるよね。
ケガ、ひどいし。
前のときだって、治るまで時間かかったし。
……今度のは。
うっ、考えちゃダメだ。
うん、すぐ治る。
治るったら、治る。
はギュッと目をつぶる。
薄々、わかっているのだ。
今度のケガは、後に響くことになることぐらい。
……。
すっごい、自己嫌悪。
最悪、クビだよね。
だって……、やっぱりクビになるんだぁ。
この場合、労災なのかな?
退職金ってどれぐらい出るんだろう?
「戦に勝利したのに浮かぬ顔だな」
「今、ちょっと計算に忙しくて……。
って、司馬懿様ぁ!?」
はびっくりして、飛び起きる。
当然、鋭い痛みが体中を駆け抜ける。
一週間は寝台の上にいないければならない、重症患者なのだ。
そのことを、すっかり、きっかり、忘れてしまう。
……自分自身のことなのに。
「い、……痛くないです」
大きな瞳に涙を浮かべて少女は言った。
「馬鹿め」
不機嫌そうに司馬懿は、の隣に腰を下ろした。
それが合図なのか、荷台がノロノロと動き出した。
ほろつきなので、周囲の景色は見えないが、車輪の振動は伝わってくる。
平坦な道を走っているようだった。
「痛みは酷いのか?」
冬の太陽を凝らせたような色の瞳がを見つめる。
見慣れているはずなのに、ドキドキして少女は思わず目をそらした。
な、何で、だろう。
すっごい、緊張してきた〜!!
おかしいよ、変だよっ!
司馬懿様に、いまさら緊張してもムダなのに!!
「大丈夫です。
司馬懿様、嬉しそうじゃないですね。
戦に勝ったのに」
は話題をすり替えようとして、失敗した。
以前の少女なら、そんな愚かな質問をしなかったはずだ。
何故なら、司馬懿は戦に勝っても嬉しくない、ということを誰よりも傍で見てきたのだから。
今の少女は、平素できていた気配りというものが、すっぱりとなくなってしまった。
それどころでは、なかったのだ。
……うっ。
ど、どうすれば良いの?
自分の心臓が、自分のものじゃないみたい……。
「お前が怪我をしたからな」
つぶやくように司馬懿は言った。
「あ、もしかして私、足をひっぱちゃいました?
司馬懿様の評価下がっちゃいましたよね〜。
私がこんな有様じゃ……。
出世の邪魔しちゃって」
少女は反射的に答え、ヘラッと笑う。
「そんなものは、どうでも良い」
「俗物だっていう意味じゃなくって。
そのー、責任とか取ることになっちゃったら、私の勝手な判断だって言ってくださいね〜。
ホントに、何か、司馬懿様には迷惑かけてばっかりで。
護衛武将なのに」
「安心しろ。
今日限りで、解雇してやる」
「え?」
黒い瞳はゆっくりと一瞬きをした。
ストンと、言葉が胸の中に落ちた。
冷たい氷のように、けして溶けない氷の化石のように、心に響いた。
うるさいぐらいのドキドキも、おさまった。
代わりに……。
「そうですよねー。
最後まで、役立たずで……」
声が震えるのがわかった。
あと一呼吸で言い終わるのに言えない。
はうつむいた。
やっぱり、クビなんだ。
仕方がないよね。
せめて、最後まで笑顔で……。
あれ、おかしいなぁ。
どうすれば、笑えるんだろう……?
白く細い指先が少女の顔を上げさせる。
「すぐ顔に出るな」
「仕方がないって、わかってるんですよぉ。
ケガしちゃったし。
もう、……護衛武将として……お役には立てない、ことは」
やっとのことで、は告げた。
だけど……。
もう少し、一緒にいたかった。
こんな風に突然、別れが来るなんて思っていなかったから。
だから。
イヤ『だった』。
とっくの当に、諦めが……ついていた。
「今まで、お世話になりました」
都に戻るまでが残された時間。
あとどれぐらいあるか、わからないけれど。
それで、我慢しなければいけない。
は微笑んだ。
これから、きっと何度も思い出す。
忘れることなんてできない。
私は、この人の命を守ることができた。
その代価として、名前をちゃんと呼んでもらった。
一度も、物扱いしなかったこの人を。
これから、ずっと想っていくんだ。
それはほろ苦いけれど、嫌いになれない気持ちだった。
だから。
これが最後なら。
「私は、司馬懿様の護衛武将で良かったです」
きちんと言っておこう。
残らず言ってしまおう。
「すごく、幸せでした」
これから先、言うことはないだろうから。
「司馬懿様のことが、大好きです」
少女の頬を涙が静かに伝う。
「それだけは過去形ではないんだな」
「はい」
はうなずいた。
もう言葉にならない。
涙であふれかえって、想いは音にならない。
にじんで、輪郭がぼやけて見える景色。
それでも見失いたくないと、は一生懸命に司馬懿を見つめる。
「お前を解雇する理由は単純だ。
私の判断が鈍る。
我が軍の大きな損失になるからな。
だからと言って、他の武将にくれてやるのも気に障る。
お前は一生、私の傍でお茶でも汲んでいろ」
「……え?」
は困惑する。
ちゃんと言葉は聞こえたし、意味もわかる。
でも……理解できない。
考えようとすると、思考がバラバラにほどけてしまう。
「救いがないほどの馬鹿には、私ぐらい出来の良い人間でないと相手が務まらぬだろう?」
司馬懿は意地悪げに問う。
「えーっと。
それって……」
少女は、頭の中を総動員して考える。
考えて、考えて……、涙が止まるほどに考えて。
ようやくたどりついた答えは、この少女らしかった。
青年にとって手痛い失策だった。
時と場所と状況、これまでの経過をわきまえた方が良かった。
この少女は、どこまでも馬鹿で、能天気で、家族思いで……。
これは後々まで禍根を残すことになった。
最たる記憶になる。
「つまり、ただ働きってことですか?」
もし、これを盗み聞きしている人間がいたとしたなら、笑いをこらえるのも一苦労だっただろう。
あくまで少女は真剣に尋ねたのだ。
「この馬鹿めがっ!!」