「陣を立て直す。
一旦、退く」
冷静な声が命を下す。
「司馬懿殿の護衛武将が!」
「かまわぬ!
あんなに丈夫なのだ。
放っておいても、そのうち戻ってくるだろう」
血も涙もない非情な言葉だった。
司馬懿に意見を言った者も、その冷たい気迫に呑まれて言葉を失った。
「全軍、後退だ!」
司馬懿の声が響き渡る。
それから、一昼夜と半。
司馬懿率いる魏軍は、勝利した。
敵は、いくつかの策を用意していたようだったが、すべては不発に終わった。
多勢に無勢。
地獄絵図さながらの、蹂躙戦が繰り広げられた。
寛大からは程遠く、慈悲からはなお遠く。
一兵残らず、殺されるという有様だった。
それは、現在も続いている。
地上を焦土と化すよう命じた男は、戦火から離れた場所にいた。
谷底を供もつけずに歩いていた。
もとより、供になるような者はいない。
たった一つの例外は……今、彼の傍にはいなかった。
天は光を地上に分け与えるのを拒むように、曇り。
分厚い雲は、まるで青年の心の中のよう。
雨が降り出すその一歩手前。
冥い夜の始まりだった。
一度も名を呼んだことはなかった。
呼ばなくても、不便はなかった。
少女はいつも目の前にいて、何が楽しいのか、いつも笑顔で「司馬懿様」と走りよってきた。
そんな必要はなかった。
だから、一度も名を呼んだことなんてなかった。
これからも、その名を呼ぶことがないかもしれない。
その可能性に司馬懿は身震いした。
こんなときに、改めて後悔する。
今まで、必要がないと、言い聞かせていた分だけ。
愚かな過去の自分に、悔いる。
護衛武将など、死ねば補充のきく『物』でしかない。
戦場に立ち続ければ、己の命すら約束はない。
そのとっておきの非日常は、人の命が消費されるためだけにある。
どこにも味方などいなく、敵ばかりの世界だ。
司馬懿の命令で、多くの者が命を失うように、彼の命もまた同じなのだ。
指先一つで、……死ぬのだ。
そんな世界だから、少女の名を呼ばなかった。
その辺に生えている草の名を、流れる雲の名を、いったい誰が呼ぶというのだ。
失われると初めからわかっているのだ。
どんな形であったとしても、道が分かたれる相手なのだ。
『物』に名をつけてはいけないのだ。
書斎の卓の上に載っている弾棊のコマ。
あれにも名がないように。
情が移れば、失われたときの悲しみは大きくなる。
一度も呼ばないうちに失われるのだろうか?
……一度ぐらい、呼んでやればよかったのか?
名を呼んだら、笑顔で返事をしたのだろうか?
詮なきことを考える。
何もかも、想像でしかすぎない。
本物は司馬懿の中には……ない。
だから、だ。
今、その名を呼べば、少女はやってくるのだろうか?
司馬懿は口を開いた。
気管を通り、声帯が震える……、音になるその直前。
青年は立ち止まった。
その視線の先には、まだ新しい血。
しかも、その側には矢が三本。
それは何かを暗示していた。
微かな希望だった。
転々と残る血は、少なくない。
見つけた希望の光は途切れようとしている。
「馬鹿めっ。
もう少し、待っておれなかったのか」
司馬懿は独りごちる。
天は祝福しているのか、それとも代弁しようとしているのか。
まるで極上の弦楽器をかき鳴らしたかのように、誰かの名を呼ぶように、雨は降り出した。
予測よりも早く降り出した雨、洗い流される血痕。
司馬懿は焦り、走り出した。
早く見つけなければならない。
鼓動がせかす。
これが最後の機会だ、と。
ただでさえ狭い視界を、雨はさらに狭くする。
天すらこの出会いを呪っているようだった。
まるで、司馬懿が見つけ出すのを恐れるように、少女の痕跡を隠そうとする。
「司馬懿様?」
少女の声がした。
司馬懿は立ち止まる。
すぐ側の横道から、満身創痍の少女が顔をのぞかせる。
「無事だったんですね。
ちょうど、良かったです。
今、本陣はどこですか?
迷子になっちゃって……あはは」
足を引きずりながら小柄な少女が、司馬懿の前に立つ。
いつものように能天気な笑顔を浮かべて。
「私はお前を見捨てた」
謝罪のつもりだったのか。
言った本人ですら、わからなかった。
「え?
今、こうして迎えに来てくれたじゃないですか。
前にも話したことがありますけど。
作戦のためなら仕方ありませんよ。
判断が鈍って、大災害なほうが困ります。
私は護衛武将ですから。
いくらでも代わりがいますから」
だから、気にしないでください、と少女は笑った。
真夜のように黒い瞳は、瞬きもせずに司馬懿を見上げる。
微かなわななきも拒む。
雨が降る。
二人の間に、沈黙に、少女の黒髪に、小さな肩に。
そのすべらかな頬に、涙のように伝う。
どんなときも涙をこぼさなかった少女の、その頬を流れ落ちる。
「本当に、平気で……す。
そんなことよりも……二度と、司馬懿様に……。
……あ、逢え……な、い……ほうが。
だ、だ……から」
少女は瞬いた。
透明な雫が生み出され、雨と一緒に溶けた。
肩が揺れ、口からこらえきれない嗚咽がこぼれた。
「ちゃん……と、……司馬、懿様に、逢え……て……よ、かった……」
途切れ途切れに言葉をつむぐ。
司馬懿はためらいがちにその小さな体を抱き寄せた。
「もう、……あ、えない……かもって」
しゃくりあげながら、これまでの心細さを訴える。
腕の中の小さくあたたかな存在に途惑いながらも、司馬懿は意を決する。
痛悔が青年の背中を、押す。
「」
黒い瞳は信じられないようなものを見るように、司馬懿を見た。
感情豊かな少女は司馬懿の予想に反して、先ほどよりも大粒の涙をこぼす。
どこにそんなに水が入っているのか、不思議に思うほど、大泣きをした。
少女が泣き疲れて意識を手放すまで、司馬懿は困惑していた。