天命 第3話(軍師という立場)


「陣を立て直す。
 一旦、退く」
 冷静な声が命を下す。
「司馬懿殿の護衛武将が!」
「かまわぬ!
 あんなに丈夫なのだ。
 放っておいても、そのうち戻ってくるだろう」
 血も涙もない非情な言葉だった。
 司馬懿に意見を言った者も、その冷たい気迫に呑まれて言葉を失った。
「全軍、後退だ!」
 司馬懿の声が響き渡る。


 それから、一昼夜と半。
 司馬懿率いる魏軍は、勝利した。
 敵は、いくつかの策を用意していたようだったが、すべては不発に終わった。
 多勢に無勢。
 地獄絵図さながらの、蹂躙戦が繰り広げられた。
 寛大からは程遠く、慈悲からはなお遠く。
 一兵残らず、殺されるという有様だった。
 それは、現在も続いている。
 地上を焦土と化すよう命じた男は、戦火から離れた場所にいた。
 谷底を供もつけずに歩いていた。
 もとより、供になるような者はいない。
 たった一つの例外は……今、彼の傍にはいなかった。



 天は光を地上に分け与えるのを拒むように、曇り。
 分厚い雲は、まるで青年の心の中のよう。
 雨が降り出すその一歩手前。
 冥い夜の始まりだった。



 一度も名を呼んだことはなかった。
 呼ばなくても、不便はなかった。
 少女はいつも目の前にいて、何が楽しいのか、いつも笑顔で「司馬懿様」と走りよってきた。
 そんな必要はなかった。
 だから、一度も名を呼んだことなんてなかった。
 これからも、その名を呼ぶことがないかもしれない。
 その可能性に司馬懿は身震いした。


 こんなときに、改めて後悔する。
 今まで、必要がないと、言い聞かせていた分だけ。
 愚かな過去の自分に、悔いる。
 護衛武将など、死ねば補充のきく『物』でしかない。
 戦場に立ち続ければ、己の命すら約束はない。
 そのとっておきの非日常は、人の命が消費されるためだけにある。
 どこにも味方などいなく、敵ばかりの世界だ。
 司馬懿の命令で、多くの者が命を失うように、彼の命もまた同じなのだ。
 指先一つで、……死ぬのだ。
 そんな世界だから、少女の名を呼ばなかった。
 その辺に生えている草の名を、流れる雲の名を、いったい誰が呼ぶというのだ。
 失われると初めからわかっているのだ。
 どんな形であったとしても、道が分かたれる相手なのだ。
 『物』に名をつけてはいけないのだ。

 書斎の卓の上に載っている弾棊のコマ。

 あれにも名がないように。
 情が移れば、失われたときの悲しみは大きくなる。



 一度も呼ばないうちに失われるのだろうか?
 ……一度ぐらい、呼んでやればよかったのか?
 名を呼んだら、笑顔で返事をしたのだろうか?


 詮なきことを考える。
 何もかも、想像でしかすぎない。
 本物は司馬懿の中には……ない。
 だから、だ。

 今、その名を呼べば、少女はやってくるのだろうか?


 司馬懿は口を開いた。
 気管を通り、声帯が震える……、音になるその直前。

 青年は立ち止まった。
 その視線の先には、まだ新しい血。
 しかも、その側には矢が三本。
 それは何かを暗示していた。
 微かな希望だった。
 転々と残る血は、少なくない。
 見つけた希望の光は途切れようとしている。
「馬鹿めっ。
 もう少し、待っておれなかったのか」
 司馬懿は独りごちる。



 天は祝福しているのか、それとも代弁しようとしているのか。
 まるで極上の弦楽器をかき鳴らしたかのように、誰かの名を呼ぶように、雨は降り出した。
 予測よりも早く降り出した雨、洗い流される血痕。
 司馬懿は焦り、走り出した。
 早く見つけなければならない。
 鼓動がせかす。
 これが最後の機会だ、と。
 ただでさえ狭い視界を、雨はさらに狭くする。
 天すらこの出会いを呪っているようだった。
 まるで、司馬懿が見つけ出すのを恐れるように、少女の痕跡を隠そうとする。


「司馬懿様?」

 少女の声がした。
 司馬懿は立ち止まる。
 すぐ側の横道から、満身創痍の少女が顔をのぞかせる。
「無事だったんですね。
 ちょうど、良かったです。
 今、本陣はどこですか?
 迷子になっちゃって……あはは」
 足を引きずりながら小柄な少女が、司馬懿の前に立つ。
 いつものように能天気な笑顔を浮かべて。
「私はお前を見捨てた」
 謝罪のつもりだったのか。
 言った本人ですら、わからなかった。
「え?
 今、こうして迎えに来てくれたじゃないですか。
 前にも話したことがありますけど。
 作戦のためなら仕方ありませんよ。
 判断が鈍って、大災害なほうが困ります。
 私は護衛武将ですから。
 いくらでも代わりがいますから」
 だから、気にしないでください、と少女は笑った。
 真夜のように黒い瞳は、瞬きもせずに司馬懿を見上げる。
 微かなわななきも拒む。

 雨が降る。
 二人の間に、沈黙に、少女の黒髪に、小さな肩に。
 そのすべらかな頬に、涙のように伝う。
 どんなときも涙をこぼさなかった少女の、その頬を流れ落ちる。

「本当に、平気で……す。
 そんなことよりも……二度と、司馬懿様に……。
 ……あ、逢え……な、い……ほうが。
 だ、だ……から」
 少女は瞬いた。
 透明な雫が生み出され、雨と一緒に溶けた。
 肩が揺れ、口からこらえきれない嗚咽がこぼれた。
「ちゃん……と、……司馬、懿様に、逢え……て……よ、かった……」
 途切れ途切れに言葉をつむぐ。
 司馬懿はためらいがちにその小さな体を抱き寄せた。
「もう、……あ、えない……かもって」
 しゃくりあげながら、これまでの心細さを訴える。
 腕の中の小さくあたたかな存在に途惑いながらも、司馬懿は意を決する。
 痛悔が青年の背中を、押す。







 黒い瞳は信じられないようなものを見るように、司馬懿を見た。
 感情豊かな少女は司馬懿の予想に反して、先ほどよりも大粒の涙をこぼす。
 どこにそんなに水が入っているのか、不思議に思うほど、大泣きをした。
 少女が泣き疲れて意識を手放すまで、司馬懿は困惑していた。

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