そんな予感はしていた。
「はぁ」
司馬懿の護衛武将・はためいきをついた。
「戦場なんですよねぇ」
不満げに少女は言う。
非常にけしからんことに、この小柄な少女、戦場が嫌いだった。
護衛武将の分際で。
前回、大怪我を負ったのも原因の一つだが……。
「何が言いたい?」
すぐ傍にいた上官に見咎められる。
「え、何がですか?」
はクリッとした黒い瞳を司馬懿に向ける。
「今、口から漏れていた言葉だ」
「え!
また、何か言ってましたか!?
無意識なことまで、責任取れませんよぉ!!」
「だったら、口をきちんと閉じておれっ!」
司馬懿は怒鳴った。
「そんなささやかなことで怒らないでくださいよ」
ためいき混じりには言った。
「どこがささやかだ!!」
「もう、クセなんです。
諦めてください」
「どんな癖だ。
よく故郷で、問題にならなかったな」
「へ?
あ、そうですねー。
どうしてでしょう?」
は首を傾げる。
おかしいなぁ。
里にいた頃は、しっかり者で通ってたんだけどな。
そりゃあ、ちょっとはおてんばだったかもしれないけど。
明るく、元気で……。
こんなにベラベラと余計なことまでしゃべってはなかったような?
んー?
でも、都の人が気にしすぎなのかも。
だって、私の里はすっごい田舎だし。
みんな大らかだったから。
「きっと、司馬懿様が狭量なだけですよ!」
ニコッとは言った。
周囲の気温がすーっと下がっていく音が、何故か聞こえた。
なぜだか、くっきり、しっかりと。
身の危険を感じた少女は、全力で言葉をつむぐ。
「はっ!
違います!
間違えました!!
そんなつもりじゃなかったんです!!」
「どんなつもりだったんだ?」
「深い意味はありません!
本当です。
だって、本当に故郷では何の問題にもならなかったんですよ〜」
は祈るように両手を組む。
「司馬懿様と一緒にいると、何故かしゃべらなくても良いことまで言っちゃうんです!!」
「ほお、他人のせいにするのか」
司馬懿は黒羽扇を握りなおす。
ひぃ〜。
司馬懿様、怒ってるぅ。
しかも、ビームを放つ気満々だよ〜。
これから、敵と戦うっていうときに、ムダに体力を消耗している場合じゃないのに〜。
「そんな、滅相もない!
司馬懿様の傍だと、気が緩んじゃうって言うか。
その、そうだ。
緊張しないって言うか、警戒心がなくなるって言うか。
安心しちゃうんです!」
は何とか、無難な答えをひねり出した。
「ふん」
司馬懿はついっとから視線を外した。
少女は、ほっと胸をなでおろした。
「これから戦いが始まるんですよね」
首にぶらさげた飾りを、は何となくふれた。
とろりとした風合いの緑の石が、冷たかった。
「そんなにこの仕事をクビになりたいのか?」
低い落ち着いた声が少女に問う。
「え!
クビになったら、どうすれば良いんですか!?
私には養わなきゃいけない家族がいるんです!
まだ、弟も、妹も小さいんですよ!
それに、お母さんは病気がちだし!!」
はまくしたてる。
「ならば、そういうことを口にしないことだな」
「そういうことって、どういうことですか?」
「戦場に対する不満だ」
「護衛武将の仕事は気に入ってますよ♪」
努めて明るく少女は言う。
この仕事に不満を持ったことは、ないと言い切ることはできなかったし、後悔をしたことがないとも言えない。
けれども、護衛武将であることを辞めたいと思ったことはない。
それだけは断言できる。
誇らしげに言うことができること。
司馬懿の護衛武将である、ということは。
「278回」
おもむろに司馬懿は口を開いた。
「何の数ですか?」
黒い瞳をしばたかせる。
「お前が、朝からついたためいきの数だ」
「………………。
司馬懿様って、暇人ですね」
しみじみと『余計なこと』を少女は言った。
「せっかく私よりもできの良い頭を持っているのに、もったいないですよ〜。
護衛武将のためいきの数、数えてどうするんですか?
そんなことのためじゃなくて、もっと他のことのために使った方が、世のため、人のためです♪」
「片手間に数えていただけだ」
不機嫌に司馬懿は言った。
「あ〜、そうですよねぇ。
司馬懿様ぐらい、頭が良かったら、色んなことを同時に考えられちゃいますよね。
あはは〜」
「自分の安全のためだ。
護衛武将が役立たずでは、連れてくるだけ無駄だからな」
青年は皮肉げに笑う。
「司馬懿様って、本当にやさしいですよね。
私、司馬懿様の護衛武将で良かったです」
それは心からの想いだったから、少女は自然と笑顔で言った。
「……過去形か?」
「あ……!
そ、そんな、つもりじゃなかったんです!!
信じてください!!」
は半べそになりながら、弁解をした。
きっと、そんな予感はしていた。
だから……。
不思議と後悔はしない。
夕刻。
魏軍は見晴らしの良い山の上にたどりついた。
孫子兵法にあるように、高いところの方が、低いところよりも有利なのだ。
地に利あれば、勝つのも容易になる。
勝ち易きを作るのが、必勝の法。
けれども、敵とてそれに気づかぬはずがない。
兵を伏するもまた、効果的な策だった。
緊張が緩んだところで、敵を叩く。
兵といっても、職業軍人は少ない。
混乱すれば、逃げる者も多い。
ましてや、指揮官が失われた場合は、その軍は烏群にしか過ぎない。
誰よりも早く気がついたのは、少女が弓兵だったからだ。
しかも、魏軍では数少ないという括りがつく。
接近戦では勝ち目のない弓兵は、他の兵種よりも観察力を求められる。
遠距離から敵を狙い、必ずしとめる集中力。
抜群の敏捷性。
少女は間違いなく、天賦の才を持つ弓兵だった。
そして、他の誰よりも護衛武将らしい護衛武将だった。
「司馬懿様!
危ないっ!!」
気がついたら、体が動いていた。
矢が宙を切る音よりも早く。
少女は動いた。
なんの躊躇もなく、上官を突き飛ばした。
後先を全くもって考えていなかった。
そんなことをすれば、どうなるか。
知っていても、は身を挺したことだろう。
一本目の矢は肩をかする。
二本目の矢は当たらなかった。
けれども、残り三本は小さな少女の体に突き刺さった。
気を練りこまれたそれは、神速。
少女の体を、やすやすと吹き飛ばす。
谷底へ、と。
不思議な浮遊感。
自分の足が地面から離れていた。
引き込まれる、空気の中。
下へと。
体中の血が逆巻く。
遠ざかる景色に、は微笑む。
司馬懿の無事を確認する。
いつか、こんな日が来るんじゃないかって。
来ないでほしかったけど……。
うん、でも、しょうがないや。
だって、私は護衛武将だから。
少女は静かに瞳を閉じる。
まぶたの裏に浮かんだのは、故郷の家族でもなく、同僚でもなく、弓の師でもなく、その黒い瞳が直前まで見ていた者だった。
地面に叩きつけられるまでの、ほんのわずかな時間。
少女はたった一つの願いを想った。
もしも、これが最後になるというのなら。
わがままを言っても許されるのなら。
名前、呼んでほしかったな……。
あの日、出会って。
一日も欠けることなく、会って。
誰よりも一緒にいた。
それでも、名前を呼んではもらえなかった。
これから先も、そんな機会はなさそうだ。
だから、少女は……諦めきれなかった。