天命 第1話


 そんな予感はしていた。



「はぁ」
 司馬懿の護衛武将・はためいきをついた。
「戦場なんですよねぇ」
 不満げに少女は言う。
 非常にけしからんことに、この小柄な少女、戦場が嫌いだった。
 護衛武将の分際で。
 前回、大怪我を負ったのも原因の一つだが……。
「何が言いたい?」
 すぐ傍にいた上官に見咎められる。
「え、何がですか?」
 はクリッとした黒い瞳を司馬懿に向ける。
「今、口から漏れていた言葉だ」
「え!
 また、何か言ってましたか!?
 無意識なことまで、責任取れませんよぉ!!」
「だったら、口をきちんと閉じておれっ!」
 司馬懿は怒鳴った。
「そんなささやかなことで怒らないでくださいよ」
 ためいき混じりには言った。
「どこがささやかだ!!」
「もう、クセなんです。
 諦めてください」
「どんな癖だ。
 よく故郷で、問題にならなかったな」
「へ?
 あ、そうですねー。
 どうしてでしょう?」
 は首を傾げる。


 おかしいなぁ。
 里にいた頃は、しっかり者で通ってたんだけどな。
 そりゃあ、ちょっとはおてんばだったかもしれないけど。
 明るく、元気で……。
 こんなにベラベラと余計なことまでしゃべってはなかったような?
 んー?
 でも、都の人が気にしすぎなのかも。
 だって、私の里はすっごい田舎だし。
 みんな大らかだったから。


「きっと、司馬懿様が狭量なだけですよ!」
 ニコッとは言った。
 周囲の気温がすーっと下がっていく音が、何故か聞こえた。
 なぜだか、くっきり、しっかりと。
 身の危険を感じた少女は、全力で言葉をつむぐ。
「はっ!
 違います!
 間違えました!!
 そんなつもりじゃなかったんです!!」
「どんなつもりだったんだ?」
「深い意味はありません!
 本当です。
 だって、本当に故郷では何の問題にもならなかったんですよ〜」
 は祈るように両手を組む。
「司馬懿様と一緒にいると、何故かしゃべらなくても良いことまで言っちゃうんです!!」
「ほお、他人のせいにするのか」
 司馬懿は黒羽扇を握りなおす。


 ひぃ〜。
 司馬懿様、怒ってるぅ。
 しかも、ビームを放つ気満々だよ〜。
 これから、敵と戦うっていうときに、ムダに体力を消耗している場合じゃないのに〜。


「そんな、滅相もない!
 司馬懿様の傍だと、気が緩んじゃうって言うか。
 その、そうだ。
 緊張しないって言うか、警戒心がなくなるって言うか。
 安心しちゃうんです!」
 は何とか、無難な答えをひねり出した。
「ふん」
 司馬懿はついっとから視線を外した。
 少女は、ほっと胸をなでおろした。
「これから戦いが始まるんですよね」
 首にぶらさげた飾りを、は何となくふれた。
 とろりとした風合いの緑の石が、冷たかった。
「そんなにこの仕事をクビになりたいのか?」
 低い落ち着いた声が少女に問う。
「え!
 クビになったら、どうすれば良いんですか!?
 私には養わなきゃいけない家族がいるんです!
 まだ、弟も、妹も小さいんですよ!
 それに、お母さんは病気がちだし!!」
 はまくしたてる。
「ならば、そういうことを口にしないことだな」
「そういうことって、どういうことですか?」
「戦場に対する不満だ」
「護衛武将の仕事は気に入ってますよ♪」
 努めて明るく少女は言う。
 この仕事に不満を持ったことは、ないと言い切ることはできなかったし、後悔をしたことがないとも言えない。
 けれども、護衛武将であることを辞めたいと思ったことはない。
 それだけは断言できる。
 誇らしげに言うことができること。
 司馬懿の護衛武将である、ということは。

「278回」

 おもむろに司馬懿は口を開いた。
「何の数ですか?」
 黒い瞳をしばたかせる。
「お前が、朝からついたためいきの数だ」
「………………。
 司馬懿様って、暇人ですね」
 しみじみと『余計なこと』を少女は言った。
「せっかく私よりもできの良い頭を持っているのに、もったいないですよ〜。
 護衛武将のためいきの数、数えてどうするんですか?
 そんなことのためじゃなくて、もっと他のことのために使った方が、世のため、人のためです♪」
「片手間に数えていただけだ」
 不機嫌に司馬懿は言った。
「あ〜、そうですよねぇ。
 司馬懿様ぐらい、頭が良かったら、色んなことを同時に考えられちゃいますよね。
 あはは〜」
「自分の安全のためだ。
 護衛武将が役立たずでは、連れてくるだけ無駄だからな」
 青年は皮肉げに笑う。
「司馬懿様って、本当にやさしいですよね。
 私、司馬懿様の護衛武将で良かったです」
 それは心からの想いだったから、少女は自然と笑顔で言った。
「……過去形か?」
「あ……!
 そ、そんな、つもりじゃなかったんです!!
 信じてください!!」
 は半べそになりながら、弁解をした。



 きっと、そんな予感はしていた。
 だから……。
 不思議と後悔はしない。




 夕刻。
 魏軍は見晴らしの良い山の上にたどりついた。
 孫子兵法にあるように、高いところの方が、低いところよりも有利なのだ。
 地に利あれば、勝つのも容易になる。
 勝ち易きを作るのが、必勝の法。
 けれども、敵とてそれに気づかぬはずがない。
 兵を伏するもまた、効果的な策だった。
 緊張が緩んだところで、敵を叩く。
 兵といっても、職業軍人は少ない。
 混乱すれば、逃げる者も多い。
 ましてや、指揮官が失われた場合は、その軍は烏群にしか過ぎない。

 
 誰よりも早く気がついたのは、少女が弓兵だったからだ。
 しかも、魏軍では数少ないという括りがつく。
 接近戦では勝ち目のない弓兵は、他の兵種よりも観察力を求められる。
 遠距離から敵を狙い、必ずしとめる集中力。
 抜群の敏捷性。
 少女は間違いなく、天賦の才を持つ弓兵だった。
 そして、他の誰よりも護衛武将らしい護衛武将だった。

「司馬懿様!
 危ないっ!!」

 気がついたら、体が動いていた。
 矢が宙を切る音よりも早く。
 少女は動いた。
 なんの躊躇もなく、上官を突き飛ばした。
 後先を全くもって考えていなかった。
 そんなことをすれば、どうなるか。
 知っていても、は身を挺したことだろう。

 一本目の矢は肩をかする。
 二本目の矢は当たらなかった。
 けれども、残り三本は小さな少女の体に突き刺さった。
 気を練りこまれたそれは、神速。
 少女の体を、やすやすと吹き飛ばす。
 谷底へ、と。


 不思議な浮遊感。
 自分の足が地面から離れていた。
 引き込まれる、空気の中。
 下へと。
 体中の血が逆巻く。
 遠ざかる景色に、は微笑む。
 司馬懿の無事を確認する。




 いつか、こんな日が来るんじゃないかって。
 来ないでほしかったけど……。
 うん、でも、しょうがないや。
 だって、私は護衛武将だから。

 少女は静かに瞳を閉じる。
 まぶたの裏に浮かんだのは、故郷の家族でもなく、同僚でもなく、弓の師でもなく、その黒い瞳が直前まで見ていた者だった。


 地面に叩きつけられるまでの、ほんのわずかな時間。
 少女はたった一つの願いを想った。
 もしも、これが最後になるというのなら。
 わがままを言っても許されるのなら。


 名前、呼んでほしかったな……。


 あの日、出会って。
 一日も欠けることなく、会って。
 誰よりも一緒にいた。
 それでも、名前を呼んではもらえなかった。
 これから先も、そんな機会はなさそうだ。
 だから、少女は……諦めきれなかった。

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