その日、護衛武将のは呼び止められた。
いつも走り回っているので、誰かに話しかけられるときは、呼び止められることになるのだが……。
そんな感じで、その日も呼び止められたのだ。
曹丕に。
ここで問題点があるとしたら、二つほどであろう。
なぜか一人で出歩いている曹魏の表向きの最高権力者(真の最高権力者はその妻であろう)
その最高権力者に『呼び止められた』護衛武将
つまり、曹丕がいたのにもかかわらず、は無視って通り過ぎようとしたのだ。
この少女には全く持って、悪意はない。
……非常に由々しきことだが、気づかなかったのである。
これほど影の薄い最高権力者は……いないと言いたかったのだが、結構いる。
呉の孫権とか、蜀の劉禅とか。
今の世は、臣下よりも大人しい君主ばかりだった。
嫌な感じに三國鼎立していた。
案外、腹を割って語り合えば、簡単に統一できちゃいそうな感じである。
「仲達の護衛武将だな」
「はい、と申します!」
底抜けに明るいのが少女の取り柄だった。
「良いものをやろう」
「ホントですか!?」
の黒い目が期待でキラキラと輝く。
ただで貰える物は、何でも貰っておく主義だった。
実に……このご時世を反映していると言うか、たくましい精神だった。
「仲達の護衛武将だからな」
曹丕は言った。
なかなか嫌なくくり方をする帝王である。
「こちらだ」
魏の皇帝を案内人にする、という滅多にない幸運に巡り会えた少女は、その後ろを思案顔でついていく。
……殿。
もしかして、私の名前を覚える気がない……?
他人の話を聴かない人だって、言われてるけど。
ここまで他人の話を聞かないんじゃ、司馬懿様も大変だろ……。
って、もしかして司馬懿様みたいな家庭教師をつけられたから、こんなんになっちゃったとか?
むかしは、素直で可愛らしかっ……。
って、それも気持ち悪うぅ。
やっぱり、殿は殿だよ。
「仲達の護衛武将よ」
「はい?」
「口から垂れ流してるぞ」
「へ?」
「全部、話してるな」
「……すみません、悪気はないんです」
「ある方が面白いな」
曹丕は言った。
「そうなんですか?
ご期待に添えなくて、申し訳ありません」
はペコッと頭を下げる。
「素直だな。
仲達もそんなところが気に入っているのだろう」
曹丕は胡散臭い物が乱雑に置かれている部屋に入る。
もついていく。
息を吸った瞬間、全部吐き出したくなるほど、埃っぽい部屋だった。
空気が淀んでいるのだ。
それこそ、司馬懿の寝室並みに。
「気に入られてますか?」
ちょっとばかり耳慣れない言葉だったので、は聞き返した。
はっきり言って、不敬である。
「仲達が他人を長く置くのは、珍しい」
「よく知ってますね」
「お前よりは付き合いが長いからな」
心なしか嬉しそうに曹丕は言う。
「これだ」
曹丕は、書棚から巻物を一つ取る。
「何ですか?」
「お前に必要なものだ。
持っていくと良い」
「ありがとうございます!」
得体の知れない物だったが、くれるって言うのではニコッと笑った。
「って、わけなんです」
は一部始終を上官に報告した。
「ほお」
司馬懿は静かにキレていた。
己の護衛武将にではなく、教え子のほうにである。
「で、これ何ですか?」
は巻物を見せる。
「護衛心得、か」
青年は一瞥しただけで、理解した。
「ゴエイココロエ?」
未知の言葉だったため、はオウム返しに尋ねる。
「お前のように、無駄な動きをして、足手まといになる護衛武将を賢くするための書物だ」
司馬懿はさらりと失礼なことを言った。
当然のことだが、鈍感、能天気の無敵の護衛武将は気にするはずもなく、
「文字が読めなきゃ、これ読めませんよね」
は巻物をしげしげと見つめる。
少女の頭は、この巻物の価値を計算するのに忙しかった。
流石に『売る』という選択肢はなくなったが、目利きは重要である。
この乱世、何があるかわからない。
「そうだな」
「……文字が読める程度に馬鹿な護衛武将って、どんな感じなんでしょう?」
少女は小首をかしげる。
変な感じ〜。
だって、文字を読めるってことはそれなりに勉強してる証拠だよねぇ。
でも、それで「馬鹿」って。
応用が利かないって意味なのかなぁ?
「とりあえず読んでおけ。
役に立つだろう」
「はーい」
それから、四分の一刻(30分)経過
司馬懿の書斎の窓の近くの、床几(椅子)ではなく、敷物の上。
玻璃越しに、お日さまの光を受けながら、少女は「護衛心得」と格闘していた。
「曰く。
護衛武将たるもの
必要、守る? ……者。
先に死す?
あれ、非だから、否定するんだよね?
えっと、死んじゃダメ? ってこと。
待ってこっちにかかるから、守るために死ぬってこと?
無駄死にはするなってことかぁ」
はぶつぶつとつぶやく。
文章が難しく、口に出さないと頭に入っていかないのだ。
無駄が一切省かれた文体は、暗号のようなものだった。
文字一つで意味が全く変わってしまう。
話し言葉とは、ルールが違うのだ。
うんうんとうなりながら、は護衛心得を読む。
ちなみに、まだ最初の一文である。
一般的な書物と同じで、護衛心得も、一番最初に書いてあることがまとめであり、最重要箇所だ。……とは言え、時間のかけすぎだった。
巻物はさらに続いているのだ。
この分だと、一月かかっても読み終わらない。
しかも、…………誤読している。
仕事していた司馬懿の集中力も途切れるというもの。
青年は無言で立ち上がり、ズカズカと大股でのところまでやってきた。
敷物の上に座り込んでいた少女は、きょとんと顔を上げる。
「曰く。
護衛武将たるもの、その守るべき者よりも、先に死すことなかれ」
護衛心得を取り上げると、青年は読み下した。
「あ、そう読むんですか?」
「護衛武将は、決して武将よりも先に死んではいけない。
と言う意味だ!」
司馬懿は少女の隣に座った。
あのやたらプライドが高すぎる男が「床の上」に、腰を下ろしたのだ。
この光景を目撃する者がいたなら、噂をばらまかずにはいられないような衝撃的な構図だった。
幸いなことに(?)、この光景を目にした者はいなかった。
「……?
どうして先に死んじゃいけないんですか?」
は驚いて、司馬懿を見る。
んー?
武将を守って死んじゃうって、良くある話な気がするんだけど。
だって、護衛だし。
その分、お給料良いし。
「死んだら、守れなくなるだろうが」
その声は多大に苛立ちが含まれていた。
「あ、そっかぁ!
目からウロコですね。
武将が本陣に帰還するまで、死んだらいけませんよね♪」
はぽんと相づちを打つ。
「そういうことだ」
司馬懿は言った。
「一つ賢くなりました。
でも、司馬懿様、安心してください!
私は簡単に死んだりしませんよ!」
元気でお馬鹿な護衛武将は言う。
琥珀のような瞳が少女をいぶかしげに見遣る。
「だって死んだら、もうお金が稼げなくなっちゃうじゃないですか!」
自明の理だと言わんばかりに、は言い切った。
「お前は金のことしかないのか!?」
司馬懿は怒鳴った。
「えー、護衛武将しているのは、お金儲けのためなんですけど〜」
は不満げに唇をとがらせる。
「高尚な精神を期待した私が、愚かだったようだな」
司馬懿は嫌味ったらしくためいきをついた。
「え、司馬懿様、馬鹿なんですか?」
少女は弾かれたように上官を見る。
「馬鹿とは何だ、馬鹿とは!
お前にだけは言われたくないわ!!」
司馬懿は最大声量で怒鳴った。
嫌な感じに三国一、キレやすいデリケートな軍師様である。
もちろんこの後、追尾性抜群の紫光線にが追い立てられたのは、言うまでもないことだった。