「今は護衛武将なんてしてますけど、ちゃんと将来の夢あるんですよ」
曇りの日が続く中、恋しくなる太陽のような声が能天気に言う。
「お金持ちのお嫁さんになるんです♪」
はしゃいだ声は、小川を跳ねる小魚のように無駄に元気だ。
聞くつもりがなくとも、自然と耳に入ってくる。
「ちゃんと、言って欲しい言葉もあるんですよ!
世界中が敵になっても、ずっと味方だって!
そんな風に思ってもらえたら、最高だと思いませんか?」
「立ち聞きですか? 司馬懿様」
芝居がかった独特な抑揚のある声が、司馬懿を現実に引き戻した。
「たまたま通りがかっただけだ」
司馬懿は不機嫌に言った。
「おや、そうですか。
に声をかけなくても良いのですか?」
張コウは微笑みながら尋ねる。
「何故、わざわざ声をかけねばならない」
「何となくですよ。
女性たちの声は、華やかで良いものですね」
張コウは言った。
走廊から見える院子では、妙齢の乙女たちが談話していた。
ちょうど枝葉を茂らせた樹があるために、あちらからは死角になっている。
「耳障りなだけだ」
「おや、そうなのですか?
それは人生の大半をどぶに捨てているようなものですよ。
あの可憐な花々を愛でずに、何を愛でると言うのですか?」
張コウは気障ったらしく言う。
司馬懿がさも愚か者であるかのように。
「それで件の女官のことですが、約束どおりいただきますよ」
「かまわぬ」
「よろしいのですか?」
「くどいな」
「いえ、張遼殿には断ったと聞きましたから、少しばかり心配になったのです。
司馬懿様が気を変えられたら、と」
張コウは微笑む。
「女官なら掃いて捨てるほどいる。
ところが、私の元で護衛武将を長く続けるものとなると、あれぐらいしかおらぬからな」
司馬懿は大きく息をつく。
「それだけですか?」
「どういう意味だ?」
「いいえ。
私の言葉はお気になさらず。
風が梢を渡るとき、枝を揺らすようなものですから。
それでは失礼いたします」
張コウは典雅に一礼すると立ち去った。
「でも、高望みはしません!
お金持ちだったら、誰でも良いんですよ♪」
高く澄んだ声が言う。
「馬鹿めっ」
司馬懿は一人ごちた。
テケテケとは走っていた。
司馬懿の部屋に行く途中、見知った女官とすれ違う。
あの陰険腹黒軍師様こと、司馬懿付きの女官・だった。
青春を棒に振っているぐらいの勢いで、まめまめしく仕えていて、しかも美人☆なので、が大好きな女性だった。
「さん」
はニコッと笑うと、は寂しげに微笑んだ。
「さん、お願いね」
は少女の手を取ると言った。
何のことだか、少女にはちっともわからない。
「?」
「司馬懿様は、敵の多い方だから……。
裏切らないであげてね」
は言った。
「……?
も、もしかして、さんどこかへ、行っちゃうんですか?
お嫁さんになるとか!?」
黒い大きな瞳をさらに大きくして、は言った。
「張コウ様の、女官になるの」
歯切れ悪そうには言った。
「えー!
まさか、司馬懿様にクビにされたんですか!?」
「そう言うわけじゃないわ。
ただ、張コウ様のところに行ったほうが良い。って言われたから行くのよ」
「誰に言われたんですか!?
そんなこと!
あ、……司馬懿様が言ったんですか?
気にしちゃダメですよ。
ちょっとぐらいミスったとしても、司馬懿様は許してくれます。
きっと明日には」
「もう決まってしまったことだから。
心配してくれて、ありがとう」
は微笑む。
「……はい」
はしょぼんとした。
せっかく仲良くなったのに、別れ別れになるのは寂しい。
ただでさえ、お話ができる人って少ないのにぃ~。
こんなに急にいなくなっちゃうなんて。
なんか、友だちって呼べるような人って、ほとんどいない気がする……。
里にいたときはそうでもなかったのになぁ~。
何でだろう?
は、もしや。
この何でもしゃべっちゃう口が、都の人にとって最悪?
うわぁ、この先、友だちできないよぉ。
「さん。
司馬懿様をお願いね」
は言った。
女官の鑑とはこのことだろう。
最後まで主のことを心配している。
「はい。
任せてください」
は胸を張って答える。
護衛武将と女官では立場も仕事も全然、違うけれど。
似ているところはある。
それは仕えている主が大切だという想いだ。
だから、少女は笑顔で引き受けた。
「司馬懿様!
さんをクビにしたんですか!?」
司馬懿の書斎に駆け込むと、は尋ねた。
「入って速攻に尋ねることか、それが!」
山のように積まれた竹簡の奥、年がら年中不機嫌な上官は、やっぱり不機嫌に言った。
いつもよりも元気らしく、語尾にびっくりマークがついていた。
「はい、そうです」
は馬鹿正直に答える。
「馬鹿めっ!」
司馬懿は怒鳴った。
仕事中なので、禍々しい色のビームをは飛んでこなかった。
流石にあの黒羽扇を抱えながら、書類作成はできない。
本当に仕事が立て込んでいるようだった。
「なんか、久しぶりですね、それ。
最近、物足りないなぁ~とは思ってたんですけど。
それを聞いてなかったからですね~。
納得しました。
馬鹿め中毒症状って、感じですね」
はほえほえと言う。
「…………」
司馬懿は盛大にためいきをつく。
「で、ですね。
司馬懿様、どうしてさんをクビにしたんですか?」
は書卓に手をついて、司馬懿の顔を覗き込む。
あいかわらず、何を食べているのかわからないほど血色が悪い。
「解雇した覚えはない」
冬のお日さまを凍らせたような瞳が、を見る。
数少ない上官の美点だったから、少女はその瞳に見つめられるのは嫌いではなかった。
「だって、儁艾様のところに行くって言ってました」
「そうだな」
えー?
うーんと、
クビにしたんじゃなくて、
でも司馬懿様の女官じゃなくなって
「儁艾様が欲しいって言ったんですか?
だから、あげちゃったんですか?」
は答えらしきものを見つけた。
「ここにいるよりは、女官としての腕前は上がるだろう」
「そうかもしれませんけど……。
女官やってる若い女の人は、花嫁修業みたいなもんだし。
目指せ玉の輿ですけど。
確かに、儁艾様のところなら一流の花嫁修業になった上に、仲人とかしてくれちゃって、司馬懿様のところにいるよりも断然、お得かもしれませんけど。
って、あれ?
司馬懿様のところに残るメリットがないような……?」
は小首をかしげる。
「より良いほうに流れていくのは、人の常であろう」
司馬懿はさらりと言った。
「それって寂しくありませんか?」
「寂しいと思ったことは、生まれてこの方ない」
青年は言い切った。
「……私だったら、ちょっとでも仲良くした人と離れ離れになったら寂しいです」
はつぶやくように言った。
「残念だったな。
私はお前ではない」
「本当に寂しいと感じないんですか?」
そんな人間には思えなかった。
誰もが冷たい、と言うけれど。
そんな人だとは思っていなかった。
少女は、きちんと司馬懿の輪郭をとらえていた。
「他人とそこまで深い関係にはならない。
周りは敵ばかりだ」
司馬懿は言った。
その声が寂しいと言っているような気がした。
「大丈夫ですよ、司馬懿様。
私だけは味方です!
世界中が敵に回ったとしても、私は司馬懿様を裏切ったりしません!」
は断言した。
「……馬鹿め」
司馬懿は視線を竹簡に戻した。
「あれ?
私、変なこと言っちゃいました?」
は、きょとんとする。
「いつも、変だろう」
「まあ、そうなんですけどぉ。
じゃないです!!
いつも変って、司馬懿様ヒドイですよ~!」
「本当のことだろう」
「だからって、言って良いことと悪いことが!!」
は文句をつける。
司馬懿はそれに取り合わない。
黙々と仕事を続ける。
鈍い少女は、もちろん気づかない。
司馬懿の機嫌が良くなっていることを。