きっと誰よりも、傍にいる……。
はその背をいつも見ている。
護衛武将だから、その背中をいつも追っかけている。
戦場でも、日常でも。
いつもの日常。
司馬懿の書斎で、は書類の決済をしている上官を眺めていた。
「今度は何の悪巧みだ?」
不機嫌そうに司馬懿は言う。
見るからに機嫌の良い日なんて限られているし、午前中は大体不機嫌そうにしている。
だから、司馬懿が不機嫌そうな顔をして、不機嫌そうに話し出しても、はびっくりしたりはしない。
それが普通だからだ。
「え?」
は意味をとりかねて、小首をかしげる。
「今日はずいぶんと大人しいな。
何かあったのか?」
少女のそれと比べると淡い色の瞳が見る。
ちょっと前に見せてもらった宝石に似ている、とは思った。
透き通っていて、さわったら冷たかったあの石。
でも、それとは違って。
を見つめる瞳は、とてもあったかい。
「別に、何でもありませんよ。
考え事をしていただけです!」
少女はあわてて言い訳した。
「ふん。
呆っとしていただけか。
語るに落ちたな」
「ちゃんと、考え事をしていました。
司馬懿様は何のために戦ってるのか、と思って」
は前々から気になっていたことを言った。
「勝っても、負けても、嬉しくなさそうです。
だから、気になってたんです」
「負けて嬉しがる馬鹿がいるのか?」
「それは物のたとえで。
戦う前も、終わった後も、ちっとも変わらないじゃないですか。
だから、不思議なんです。
乱世を終わらせるため、とかって感じでもないですし」
「お前は何のために戦っているのだ?」
司馬懿は静かに尋ねた。
それは司馬懿様を守るためです。
その答えは、望まれていないことはすぐわかった。
少女は言葉を飲み込み、笑顔を浮かべる。
「それはもちろん、お金のためです!」
いつものように明るく答える。
「即物的な人間が他人に問うことか?」
どことなく安心したような声が言う。
「だって、気になっちゃったんです。
戦うの楽しそうじゃないし。
あ、敵の陣形にケチをつけて、高笑いしているときは別ですけど。
それ以外は、面白くなさそうな。
……って、やっぱり敵に裏をかかれたりすれば、楽しくないですよね。
この前も」
「頭と胴が泣き別れになっても良いようだな」
「え、司馬懿様、羽扇じゃないですか。
そう言うセリフは剣とか、刀を持っていないと決まりませんよ〜」
「どうして、お前はそう一言多いのだ!」
司馬懿は声を荒げる。
「あはは。
どうしてでしょう?
けっこう、治す努力はしているんですよ」
「ちっとも、感じられぬわ」
「あれぇ。
おかしいですね」
「お前と話をしていると、疲れる」
司馬懿はついっと顔をそむける。
「残念です。
私は司馬懿様とお話をするのが好きなんですけど。
一方通行ですね」
は微笑んだ。
「それで、司馬懿様は何のために戦っているんですか?」
一番、一緒にいる護衛武将だから思う。
全然楽しそうに戦っていない。
それぐらいのことは気づいた。
この国のためでも、高邁な理想のためでもない。
「選ぶ権利などなかった」
ぼそりと司馬懿はつぶやいた。
その視線は遥かな過去を思い出すように、窓の外へ投げられた。
「行かねば殺される。
まだ、死にたくなかった。
それだけだ」
司馬懿は淡々と言った。
が一歩進むと、司馬懿も一歩進む。
その距離は永遠に縮まらない。
はその背中ばかりを追っかけている。
少しでも近づきたくて、一生懸命に走っても、その差は埋まらない。
その背中ばかりを見ている。
きっと誰よりも傍にいる。
たぶん、誰よりもずっと……。
一緒にいる。
それでも、空いている距離には胸苦しい思いを味わう。
「すみませんでした。
変なこと訊いて」
はうなだれた。
生まれも、育ちも違うから、全然わからない。
何を考え、何を思うのか。
知りたいと努力しても、……意味がない。
無力な自分が悲しくなる。
「何かあったのか?」
司馬懿はもう一度同じ問いをした。
「別に、何でもありません」
は同じ答えを言った。
けれども、今度は失敗した。
笑えなかったのだ。
司馬懿は手招きをした。
少女はトボトボと目の前まで行く。
青年は座ったまま、少女の頬にふれた。
「すぐ顔に出るな。
泣きそうな顔をしている」
白く細い指先が慰めるように頬をなでる。
やさしくされれば、されるほど。
辛くなる。
そのあたたかさと、距離との温度差が悲しくなる。
二人の間の「冷たい」距離に、泣きたくなる。
この手は間違いなく、あたたかいから。
誰よりも傍にいる人。
ずっと、一緒にいる人。
護衛武将だからではなくて、傍にいたいと願ってしまう人。
その背ばかりを見ている人。