気がつかなければ良かった……。
どうして、気づいちゃったんだろう。
「おい、じゃねぇか。
どうしたんだ?」
呼び止められて少女は振り返った。
「おはようございます、妙才様」
「何か、嫌なことでもあったのか?」
「え、どうしてですか?」
は小首をかしげる。
「何つーか、ほれ。
肩が下がってるからよぉ」
神速で強弓を引く大きな手がの肩に乗る。
「ちょっと、心配になったわけよ。
悩み事があるなら、何でも言えよ。
力になってやっから」
夏侯淵は真剣に言った。
「ありがとうございます。
でも、大丈夫です」
は丁寧に頭を下げる。
「それじゃあ、失礼します」
しばらく歩くと、すれ違い様に
「殿。
何かあったのですか?」
そう声をかけてきたのは、張遼。
「え?」
二連続で訊かれたものだから、は途惑う。
「体の調子が悪いのですかな?
だったら、私から司馬懿殿に伝えておきますぞ」
親切に張遼は言った。
「いつも通り、元気ですよ。
体の調子も良いし」
「そうですか……。
ならば良いのですが。
辛いことがあるなら、いつでも相談に来られよ。
私で良ければ、話を聞きましょう」
張遼はぎこちないながらも、あたたかな微笑を浮かべた。
「はい。
でも、困っていることなんてありません。
失礼します」
はぺこりと頭を下げた。
二度あることは三度ある。
「これはこれは、ではありませんか?
どうかしたのですか?
可憐に咲く花々の憂いは、この張儁艾が蝶になりて拭い去りましょう」
張コウは舞うようにの目の前に現れる。
「おはようございます、張コウ様」
「ああ、なんて他人行儀な。
儁艾でかまいませんよ。
愛らしい花に呼ばれるなら、どんな名前でもかまいませんが、贅沢を言うなら字のほうが嬉しいですからね」
中性的な顔立ちの男性は、独特な抑揚で話す。
「はい、儁艾様」
「良くできました。
は素直ですね。
何か悲しいことがあったのでしょう」
「何もありませんよ」
張コウの話の腰を折るように、は答えた。
「あなたがそう言うなら、そういうことにしておきましょう。
沈黙もまた華。
美しいあなたの心延えに感激した私という蝶もまた静かに去り行きましょう」
不思議なことを言いながら、張コウは立ち去った。
気がつかなければ良かった。
でも、気がついたから、なかったことにできない。
悩み事じゃないし、困ったことでもないし、悲しいことでもない。
昨日と同じだし、明日と同じの、今日ってだけ。
毎日、変わらないから。
これもきっと、変わらない。
「あら、。
どうしたの?」
「落ち込んでるよ。
また、司馬懿様に怒られたのか?」
魚ちゃん先輩に恵ちゃん先輩が歩いてきた。
「こんにちは。
まだ、司馬懿様に怒られてませんよぉ。
これから挨拶に行くから、怒られちゃうかもしれませんけど」
は言った。
「何か言われても気にすんなよ。
他人にケチをつけるのがあの人の仕事だかんな」
恵はの頭を抱きかかえると、ぐりぐりする。
「そうですよ。
つい憎まれ口を叩いてしまうのが、司馬懿様らしいところなんです」
フォローになっていない、フォローを魚がする。
「知ってますよ。
もう、慣れました」
は答える。
「なら、良いんだけどさ。
あんま、考え込むなよ」
の背をパンと叩くと、恵は解放した。
「ええ、恵と同じぐらいには気楽に構えなさい」
「おい。
魚、どう言う意味だよ!」
「そのままよ」
「言ったなぁ」
「と言うわけで、。
いつでも力になるわ」
「はい。
ありがとうございます」
はうなずいた。
他の人は簡単に。
司馬懿様は、一度も……。
夢の中では……。
でも、夢はやっぱり夢で。
現実じゃない。
「失礼します、司馬懿様」
毎朝の日課。
鍛錬が終わったら、この書斎で1日を過ごす。
お使いをしたり、お茶を汲んだり、書類整理を手伝ったりしている。
青年が暇なときは、字を教えてもらったり、お話を読んでもらうこともある。
「今朝は何から始めれば良いですか?」
は尋ねた。
「調子が悪いのか?」
竹簡に埋もれている司馬懿はこちらを見ずに訊いた。
「あ、ちょっと。
変な夢、見ちゃって。
夢自体は、全然良い夢だったんですけど。
起きたらすっごく……悲しくなっちゃって。
それで……」
はごもごもと言う。
どうにも落ち着かなくて、服の裾をいじる。
「変な夢か。
夢説きをしてもらったほうが良いのかもしれないな。
非現実だがな」
司馬懿は淡々と言う。
「わかりやすい夢だったから、大丈夫です。
ちょっとだけ……」
悲しいんじゃない。
苦しいんじゃない。
このぼんやりとしたつかみどころのない気持ちに、驚いているだけ。
こんな気持ちになったのは初めてだから、わからない。
「お前のせいで、朝から千客万来だ」
司馬懿は言った。
はうつむいた。
どうして、そのたった一言が気になるんだろう。
今までは全然気にならなかったのに。
「どんな話をしたのだ。
来る者、来る者、全て私のせいだと責められた。
確かにお前は私の護衛武将だが、私生活に立ち入るほど親しくはしていない。
全員に弁解しておけ。
明日もこの調子でやって来られたら、迷惑だ」
おかげでまだ仕事がこれだけしか片付いていないと、司馬懿はイライラと言った。
「何の話ですか?」
は顔を上げた。
「だから、お前が……」
司馬懿はそこで言葉を切った。
排他的な光を宿していることが多い瞳が、かすかに見開かれる。
「馬鹿め。
こっちに来い」
「はい」
命令されては、司馬懿の傍に行く。
青年はのほうに向き直ると言った。
「自覚がないのか?」
白くて長い指がためらいがちにの頬にふれた。
「え?」
は目を瞬かせる。
「今にも泣きそうな顔をしているぞ」
ひどくやさしい声が言った。
ひんやりとした指先が頬をなぞる。
それが心地良いと思った。
「何でもありません」
は答えた。
だって、きっと……迷惑だから。
とてもやさしい夢を見た。
でも、それが夢だったから、すごく辛かったなんて。
言ってはいけない。
「何か嫌なことでもあるのか?」
司馬懿の質問に、は首を横に振る。
嫌なことはない。
ただ、ちょっとだけ……。
胸が苦しくなる。
さびしいに似ている気持ち。
それをどう表現して良いのか、わからない。
「何でもないんです」
はやっとしぼりだすように言った。
自分でも良くわからない気持ちに翻弄される。
「本当に何でもないんです」
「だったら、笑え。
いつものように能天気に笑っていろ。
命令だ」
司馬懿は尊大に言った。
「はい」
は笑顔を作った。
それに、司馬懿はすこし安堵したのか微笑んだ。
すごく幸せな夢を見た。
だから、目を覚まして……うしなって初めて気がついた。
こんな気持ちは初めてで、苦しんじゃなくて、悲しいんじゃなくて、嫌なんじゃなくて。
ぐるぐる回る考えに、自分を見失いそうになる。
でも、一つだけわかったことがある。
ここは夢じゃないから、絶対に……あの夢の中のようには。
呼んではくれない。
司馬懿様は、名前を呼んでくれないのだ。
他の人は名前を呼んでくれる。
それはそれで嬉しいけれど、たりない。
司馬懿様だけが……呼んでくれない。
それがちょっとだけ……。