朝を待ちかねたように黒い瞳が静かに開いた。
まだ陽が昇りきる前のことだった。
嫌な予感がする。
目を覚ましても、ドキドキが止まらなかった。
司馬懿の護衛武将・は、半身を起こした。
小さな体から、するりと青紫色の外袍が滑り落ちた。
絹でできた上等なそれは、戦場には不釣合いなほど落ち着いた光沢を放っていた。
かすかに朽ちた葉のような香りがする。
「これ……?
司馬懿様の?」
夢から醒め切れないまま、少女は呟いた。
こんなのかけていたっけ?
高そう〜。
売ったら、どれぐらいになるんだろう?
多分、絹でしょ?
でもって、これ、紫色だし……。
染料が高いんだよね〜。
で、どうしてこれ、私が持ってるの?
んー、まさか司馬懿様がかけてくれたの?
……信じられない。
でも、……って、汚したら、弁償できない!!
はガバッと起き上がる。
「あれ、司馬懿様……。
いない。
どこに行っちゃったんだろう」
天幕の中は、自分一人しかいなかった。
上官の姿はどこにもなかった。
少女は外袍を畳み、簡素な卓の上に置くと、天幕から飛び出した。
昨日の今日だから、司馬懿様。
また敵から狙われるかもしれない。
考えることはそればかり。
戦場に出れば、護衛武将のの心配はそれに尽きる。
世界は朝靄に包まれていた。
乳白の紗がかかり、柔らかな朝がやってくるところだった。
その中、人影を見つけ喜んだものの束の間。
すぐさま、それは別人だと知る。
はがっかりしながらも、挨拶をした。
「おはようございます、文遠様」
「おや、殿。
こちらは司馬懿殿の天幕では……」
張遼は、困惑気味の表情を浮かべる。
「はい、そうですよ」
「いや、その……。
二人はそのような関係なのですか」
「?
私と司馬懿様は、護衛武将とその上官ですよ」
はきょとんとする。
「では、何故このような時間に、司馬懿殿の……」
歯切れ悪そうに男性は尋ねる。
「昨日は寝ちゃったんです。
気がついたら、朝だったんです。
それで司馬懿様、知りませんか?
起きたらいなかったんです」
「私も司馬懿殿にお会いするためにこちらに来たのですが……。
では、一緒に探しましょう」
張遼は提案した。
「はい!
ありがとうございます」
陣のすぐ側を流れる川に向かいながら、は言った。
「嫌な予感がするんです。
ただの予感なら良いんですけど」
夢から醒めたのに、まだ指先が震える。
司馬懿様と離れ離れになっちゃう夢を見るなんて……。
正夢にならないと良いんだけど。
怖い……。
「殿は護衛武将の鑑ですな」
感心したように張遼はうなずく。
「え?」
「こうして、上官を案じておられる。
私の護衛武将と代わって欲しいくらいですぞ」
「文遠様の護衛武将は?」
は訊いた。
「いまだ眠っております」
「はあ、そうなんですか。
のんびりしている人ですね。
武将よりもゆっくりしているなんて……。
って、今日は司馬懿様よりも遅起きしちゃった私の台詞じゃないですけど。
司馬懿様、戦場に来ると眠りが浅いんですよ。
すごく、心配です。
高笑いの最中に酸欠になったりしないといいんだけど……」
強張る頬を無理やり動かして、笑顔を作る。
嫌な予感に押しつぶされそうになる。
「そんなことはないでしょう。
殿は、面白いですな」
張遼はにこやかに言った。
「何をしている?」
二人と向かい合うように、上流から司馬懿が降りてくる。
青紫色の袍がゆったりと風をはらみ、典雅に広がる。
主君に負けず劣らず、険のある華やかさだった。
見た目だけなら、美形だよね〜。
でも、内面が出ちゃってるって言うか。
無駄に性格悪そうな空気漂っちゃってるよね〜。
妙才様の三分の一ぐらい親しみがあれば、もっとモテるのに。
人生の半分、損しているよね。
「司馬懿様を探していたんです!
って、あ。
文遠様と話していたのは、言いつけを忘れていたわけじゃなくて……。
その、すみませんでした」
慌てて、は頭を下げる。
「司馬懿殿、殿は悪くありませんぞ。
私が声をかけたのですから」
「ずいぶんとこの者を気にかけているようですな。
もしや、娶る気でもあるのですか?」
司馬懿は皮肉る。
「私は純粋に、殿の腕を買っているのです。
断じて、貴公とは違う」
張遼は断言した。
「ほお」
青年は冷ややかに笑う。
場が凍りつくような陰険な笑みであった。
うわぁ〜。
司馬懿様、それじゃあ悪役だよぉ。
もう十分悪役っぽいのに、これ以上悪役っぽくなってどうするんだろう?
「司馬懿様、どこに行っていたんですか?
文遠様は司馬懿様を探していたんですよ」
は口を挟んだ。
「偵察隊が帰ってきました。
こちらです」
張遼は絹布を渡す。
「ふん」
司馬懿は受け取る。
「では、失礼いたします」
張遼は一礼をすると、退がった。
司馬懿、絹布を広げる。
しばし眺めた後、
「偵察に行くぞ」
鋭く言った。
「え?
偵察はすんだんじゃないんですか?」
少女は黒い瞳はパチクリとさせる。
「これでは不十分だ」
「でも、司馬懿様自ら行かなくっても」
「敵の伏兵がいるやも知れぬ。
愚鈍では見破れないだろう」
イライラと司馬懿は言った。
「ああ、それで前回、本陣陥落の危機を迎えましたよねー。
殿は甄姫様のところに行っちゃってて無事でしたけど。
全力ダッシュで、本陣に戻ったら、敵兵しかいなかったんですよね。
あれは骨折り損のくたびれもうけでしたね」
ペラペラとは言った。
「一言多いわ!
……念には念を入れなければ」
「無為無策って言われちゃいますものねー」
「偵察に行く」
司馬懿は言った。
の中の嫌な予感が育っていく。
「待ってください!
私もついて行きます!!」
少女は叫んだ。
「何を当たり前のことを言っている。
お前は私の護衛武将だろうが」
「は、はい」
はうなずいた。
川を登っていくと、川沿いの風景は石が転がる視界の開けた場所から、木々の立ち並ぶ守りづらい場所へと姿を変える。
鼓動が増していく。
はキョロキョロ落ち着きなく、辺りを見渡す。
警戒のためではなく、不安がさせる行動だった。
葉擦れの音がこだまする中、風を切る音がした。
の耳は、そのわずかな音を聞き分けた。
思うよりも先に、体が動く。
「司馬懿様、危ないっ!!」
跳躍して、司馬懿の体をかばう。
飛来する矢。
敵の伏兵。
熱い!
矢がぷすんと刺さる。
その反動で、体が跳ねる。
肺の中の空気を全部、吐き出してしまった。
呼吸の仕方がわからなくなる。
こみ上げてくる、何か。
ぼやけた視界の端で紫の光線の軌道が見えた。
それから自分ではない、誰かの断末魔の声。
全てがコマ送りで流れていく。
時間がゆっくりと……見える。
「大丈夫か!」
司馬懿が少女の体を抱き起こす。
「カッコ悪いですー。
血がダラダラ流れてるしぃ。
死んじゃうんでしょうか……」
掠めていった矢に気が練られていたのだろう。
横腹から、血が流れていくのがわかった。
「縁起でもないことを言うな!」
「司馬懿様。最後にひとつ……お願……いをし……ても、いいですか?」
は言った。
「何だ?」
「…………。
仕送り、忘れないでください。
あと、遺族年金の手続きもちゃんとしてくださいね」
「最後に残す言葉が、それか!?」
司馬懿は怒鳴る。
それはちっとも、怖くなかった。
「ちゃんとお給料払ってくださいね」
「金のことしかないのか、お前は!!」
司馬懿様の声が遠い。
最後に、ううん、このまま死んじゃうの?
そういえば……何か気になっていることが……。
他にもあったような気がする。
でもわからない。
体が重い。
司馬懿様、何ていっているんだろう。
もう、わからないや……。
目を開けているのも辛い…………。
は目覚めた。
黒い瞳に映ったのは、天幕と心配そうな青年。
「司馬懿様」
少女の声はその名を綴った。
ほんのりとは微笑む。
「気がついたのか。
さっきは、助かっ……」
「服、汚れちゃってますね。
それ血ですよね、乾いたらもう落ちませんよー。
もったいないです。
捨てるんだったら、私にください。
綺麗なところ、はぎれとして売れそうです」
のー天気には言った。
「どうしてそんなに金に汚いんだ、お前は!!」
途端に司馬懿の機嫌は悪くなり、大声で怒鳴った。
「えー、何で怒るんですかぁ?」
不満そうには言った。
この主従、結局はこんなところである。
けれど、少女はこころなしか満足げだった。
何故なら、夢が正夢にならなかったから。
それだけで、この少女にとっては幸いなのだ。
たとえ、この後高熱で三夜うなされようとも、傷のせいで寝台から出る度に上官に怒鳴られようとも、それだけで幸せだったのだ。