ふと、それは司馬懿の視界の端に入った。
弓を持つにしても小さな手が真っ白な布に包まれていた。
普段のやかましさと正反対に、静かに茶器を置いた右手は見事にグルグル巻きにされていた。
司馬懿は顔を上げる。
青年の護衛武将はパチパチと瞬きをくり返し、小首をかしげる。
「役立たず」
司馬懿は茶器に手を伸ばしながら言った。
「……え」
はギクリッと肩を揺らす。
「護衛武将が怪我とは良い度胸だな」
「これは」
はぐちゃぐちゃに巻かれた包帯をかばう。
その拍子に傷口にふれたのだろう。
大きな黒い瞳に涙がにじむ。
上に馬鹿が付くほど正直者だ。
「見苦しい。
巻き直したらどうだ?」
司馬懿は眉をひそめながら、茶を口に含む。
「あ、これですか。
魚ちゃん先輩に巻いてもらったんですけど、私が巻き直すと、もっとひどくなっちゃうんですよね」
ヘラッとは笑った。
間の抜けた答えだったが、目の前の少女らしい結果だった。
「……手を貸せ」
ためいき混じりに司馬懿は言った。
「はい」
きょとんとしながらもは怪我した手を差し出す。
司馬懿は手慣れた手つきで、包帯を解いていく。
「もしかして、巻き直してくれるんですか?」
「もしかしなくても、だ」
「司馬懿様って親切ですね」
「整理整頓されていないと苛々するのだ」
「そうなんじゃないかなぁって思ってましたけど。
やっぱり、そうなんですね」
はふむふむと、訳のわかないことをつぶやきながら納得をする。
小さな手の平には比較的新しい豆がつぶれた跡がいくつもあった。
よほど練習したのだろう。
司馬懿は薬草を貼り直し、包帯を巻き直していく。
「過度な練習は、評価が下がるぞ」
司馬懿はを見ずに言う。
自分の手で包み込めてしまえるほどの手。
こんな小さな手に命を守られている。
それが不思議だった。
「げ」
毛虫を踏み潰したような声を少女は上げた。
「練習は無意味なんですか?」
「大きな戦いがないから良いものの、怪我をして戦場に行けないのは恥であろう」
「……気をつけます。
練習量を急に増やしても、効果が少ないのはわかってるんですけど。
やらずにはいられなかったと言うか。
司馬懿様、あの噂は本当なんですか?」
「どの噂だ?」
「……近々、護衛武将の首切りが始まるって」
はポツリと言った。
なるほど、それでか、と得心がいった。
「その噂なら本当だ。
だが、今さら騒いでも遅いぞ」
「えー!
き、決まっちゃってるんですか!?」
は大慌てする。
「私はクビですか?
言わないでください。
……わかってます。
体力ないし、弓兵だし、未だに五本射ると壁に打っちゃうし、持っている玉は陰玉だし。
この前、間違って無双を殿に当てちゃったし。
あれは出来心と言うか、うっかりと言うか。
甄姫様は気にしなくても、いつものことだから構わないって言ってたけど。
一国の主を的にしちゃったのはマズイですよね〜。
今から謝りに行っても遅いですか?
ああ、だからクビにされちゃうんだ」
おしゃべりな護衛武将は言わなくても良いことまで話し出す。
一言どころか、二言も三言も多い。
そのクセはどんどん、ひどくなっていっている。
「その話は初耳だな」
「そりゃそうですよ。
だって、司馬懿様にバレないように今まで話さなかったんです。
すっごい気をつけたんですよ。
あれぇ〜、今喋っちゃいました。
忘れてください!」
は表情を引き締め、懇願した。
「馬鹿だな」
司馬懿は言った。
「あ〜。
しみじみと言わないでください。
怒鳴られるよりも傷つくんですけどぉ」
「本当のことだろう」
「それで、私はクビなんですか?」
仕送りどうしよう、とは重々しいためいきをついた。
一家の大黒柱と言うのは辛いものだ。
司馬懿にも経験がある。
小柄な少女は、一応うら若き乙女なのだ。
その苦労は美談だろう、本人を見なければと言う注釈が付くものの。
「安心しろ。
護衛武将として役に立たなくなっても、こき使ってやる。
お茶を淹れる腕前だけは、感心できるからな」
司馬懿は包帯の巻き終わった手を離してやる。
「ホントですか?
……あ、ちゃんとお給料でますよね」
は上目遣いに司馬懿を見上げる。
「働き次第だな。
当分、先の話だ」
青年は書簡に目を移す。
「ってことは。
クビじゃないんですね!」
嬉しそうには言った。
「そうなるな」
「じゃあ、まだ司馬懿様と一緒にいられるんですね♪」
は無邪気に言った。
司馬懿はそれに対して、返答をしなかった。
できなかった、と言うほうが正しいだろう。
その後、機嫌の良い護衛武将と、顔色の良い軍師の組み合わせは、魏軍中の噂となった。