初陣


「次の戦いは、街亭だ。
 この戦い、諸葛亮はいないようだが、警戒は必要だ。
 私は本陣近くで」
 司馬懿はそこで、部下の熱い視線に気がついた。
「質問でもあるのか?」
「司馬懿様って、軍師だったんですね!」
 は今日も元気にあんぽんたん振りを発揮していた。
「何を当たり前のことを」
「だって、采配している司馬懿様を見たの、初めてなんです」
 はくりっとした大きな瞳で、司馬懿を見上げた。
 正しく、尊敬の眼差しという奴である。
 キラキラ光線が注がれ、司馬懿は柄にもなく照れた。
「それで、私は本陣近くで敵軍の動きを見極める。
 適時動くから、遅れぬように注意しろ」
 司馬懿はゴホンと咳払いをした。
「はい、がんばります!
 初陣って、何だかドキドキしますね。
 ……生きて帰ってこれるのでしょうか」
 語尾が小さくなる。
「当然だ。
 我が軍には、私と言う鬼才がいるのだからな」
 司馬懿は断言した。
「そうですよね。
 本陣近くで戦死なんて、ありえませんよね!
 それって、負け戦ですもんね」
 はニッコリと笑った。
「どうしてお前は、一言多いのだ!!」
 今日も紫色の光線は、景気良く放たれるのであった。


 決戦当日。
「気合入ってるかぁ?」
 そう尋ねたのは、甄姫様付きの護衛武将・恵ちゃん先輩である。
「緊張してますぅ〜」
 は困ったように笑った。
「まあまあ、そんなに硬くなんなよ。
 同じ戦場に行くんだし。
 助けてはやれないけど」
 恵は豪快に笑った。
「助けてもらえないんですか?」
 当てにしていた分、がっかりする。
「そりゃそうさ。
 我が軍は、いつも先鋒だもん。
 司馬懿様の軍は本陣近くだろ?
 魚の方が近い。
 後詰めで、魚が来るから、そっち頼りにすれば良いさ」
 恵は言った。
「大変ですね」
「まあ、その分、武勲は上がるからね。
 それに最前線にいる方が、性にあってる」
「かっこ良いです」
「褒めたって、何にもでないぞ。
 って、呼んでるぞ」
 恵は指で示す。
 そこには、カンカンに怒っている紫づくめの軍師の姿。
「あ。
 じゃあ、失礼します!」


「全く、ふらふらと落ち着きがないな」
 速攻、怒られたりする。
 いつものことだが、戦場に来てまで怒られるのは、少し切ない。
「すみません」
 事実なだけに、は縮こまる。
「渡しておくものがある。
 目をつぶれ」
「え!?
 どうして、目をつぶる必要性があるんですか?」
 は驚きのあまり、すっとんきょうな声を上げる。
「いいから、つぶれ!」
「全然、良くありませんよ!
 そんな怪しすぎることできません!」
「怪しいとは何だ!」
「三文恋愛小説みたいな展開はお断りします!」
「誰が、そんな馬鹿げたことを!」
 と言いながら司馬懿の顔色はいつもよりも血色が良かった。
 怒鳴り続けているせいなのか、何か下心があるせいなのかはわからない。
 そんな怖ろしいこと詮索できる者は、とりあえずこの場にいなかった。
「命令だ!」
 伝家の宝刀である。
 はグッと押しだまる。
 猛禽に狙われた子ウサギのように、ビクビクと司馬懿を見上げる。
 大きな瞳に涙を溜めて
「変なことしません?」
「私を誰だと思っている」
 尊大に司馬懿は言った。
 はドキドキしながら、瞳を伏せた。
 間違っても、恋愛小説に出てくるヒロインのような心境ではない。
 これから、食べられる予定の小動物の気分である。
 ギュッと目をつぶって、は耐えた。
 
 チャリッ

 石がぶつかるような音がして、首に何をかけられた。
「もう良いぞ」
 偉そうに司馬懿は言った。
 恐る恐るは目を開ける。
 首には高そうな首飾りがかけられていた。
 金の鎖の中央には、しっとりとした色合いの緑色の大きな石があった。
 これを売ったら、一生平穏に暮らせそう。
 の頭の中のソロバンが弾かれる。
「貸すだけだ。
 間違っても、売ろうなどと思わぬことだな」
 見透かすように司馬懿は言った。
「これ、何ですか?」
「ただのお守りだ。
 失くさぬように、首にかけてやっただけのこと」
「目をつぶる必要性はなかったと思うんですけど」
 は言った。
「凡愚にはわからぬことだ」
 司馬懿は言い切った。


 本陣では流れ行く雲を眺めていた。
 暇なのだ。
 こうも良い天気で、のんびりしているとピクニックにでも来た気分になる。
 無論、ここは戦場で、鎧兜をまとった兵士たちがいるにはいるのだが、ここは違う。
 何かが違う。
「これは、どう?」
 新しい茶菓子を魚ちゃん先輩が勧める。
「美味しそうですね♪」
 はニパッと笑う。
「でしょう?
 力作なのよ」
「魚ちゃん先輩が作ったんですか?」
「いいえ。
 作ったのは、甄姫様よ」
 ニコッと魚は微笑む。
「分けていただいたのよ。
 悪くなる前に頂いちゃいましょう」
「へー、甄姫様って家庭的なんですね」

「それを寄こせ」

 心まで冷え込むほどの冷たい声が降ってきた。
 はギクリと顔を上げると、主君の曹丕がいた。
 あいかわらず、ムダに怖ろしい顔つきである。
「駄目ですよ、殿。
 これは、に上げるんですから。
 甄姫様から、頼まれたんです。
 決して、殿には渡さないように、と」
 柔らかな表情で、魚はキッパリと言った。
「主君の命が聞けぬのか?」
「ええ。
 甄姫様の方が何倍も怖いですからね」
「甄が作った物なのに、私は食べたことがないんだ!」
 駄々っ子ののように曹丕は言った。
「でしょうね。
 甄姫様はそういう方ですもの。
 お諦めください。
 そんな方を妻にしたのは、あなた様なんですから」
 魚は言った。

 すごーい!

 は理不尽な命令を跳ね除ける先輩に賞賛の眼差しを送る。

「さあ、遠慮しないで、お食べなさい」
「でも良いんですか?
 ……一つぐらい、分けても」
 はチラリと曹丕を見た。
「まあ。
 は本当にやさしいのね。
 良いんですよ、別に殿に上げなくても。
 そんなことをしたら、の分が減ってしまうでしょう?」
「こんなにたくさんあるから、平気です。
 あの、どうぞ」
 は焼き菓子の入った袋を差し出す。
「ふん」
 曹丕は一つだけ、焼き菓子を袋から取った。
「仲達が気に入った理由が分かるな」

「って、何してるんですか!?」
 血管切れ気味の司馬懿が和やかな空間に乱入する。
「総大将なら、総大将らしくしていてください!!」
 絶叫である。
「しているではないか。
 こうして、本陣から出歩いていない」
「珍しいですね」
 魚が言う。
「今日、本陣から出たら、3日も口をきかないと言われたんだ」
「あらあら。
 それは災難ですわね」
「だから、今日は大人しくしているのだ」
「それはよろしゅうございますわ」
 息の合った主従である。
「私は策を遂行するために、進軍いたします」
 司馬懿は冷静そうに言った。
 その実、冷静ではないことぐらい、にもわかった。
 怒るちょっと前、と言う感じだ。
「行くぞ」
「はい」
 はぴょこんと立ち上がる。


「ちょろちょろと落ち着きがないな」
 麓を登りながら、司馬懿は言った。
 登ると言っても司馬懿は『軍師』である。
 ちゃんと、馬に乗っている。
 しがない護衛武将のは、当然徒歩だ。
「私のコトですか?」
「それ以外、誰がいる?」
「いや、てっきり。
 殿のことかと思っていました」
 はあっさりと言った。
「ふむ。
 一理あるな」
 司馬懿は黒羽扇を弄びながら言った。
「一つ訊いても良いですか?」
「何だ?」
「その羽に触ると、呪いがかかるってホントですか?」
「噂を鵜呑みにするのは、愚か者のすることだ」
 司馬懿は冷笑した。
「じゃあ、嘘なんですね」
「呪いをかけたい相手でも居るのか?」
「いませんよー」
 はケラケラと笑う。
「どうして尋ねた?」
「気になったからです」
「好奇心は猫をも殺す、と言う言葉は知っているか?」
「あはは〜。
 ……ちょっとした冗談です。
 場を和ませる小ネタですよー。
 本気にしないでください」
 かなり悪くなった空気には引きつった笑顔を浮かべる。
「今は作戦中だから見逃してやろう。
 戦が終わるのを楽しみにしていろ」
「えー、そんなの楽しくないです」
 思ったことが口に出るのは、の短所だった。
 大概、言ってから……後悔する。
「一言多かったな」
 司馬懿はニヤリと笑った。



 何で、どうしてこうなったのか?
 そんなことはわからない。
 は手近な草陰に隠れる。
 
 ああ、絶対怒られる。

 近い未来を思って、新米護衛武将は落ち込んだ。
 ……怒られるのが近い将来であることを、ほんの少し期待して、悲観した。

 司馬懿様、どこにいるんだろう?

 は愛用の弓をギュッと握った。
 現在、完全な迷子である。
 しかもここは敵陣深くであり、すぐ側を敵兵が見回りをしているような場所である。
 どうして、こんなことになっているのか。
 無学なにはわからないが、とりあえず現状を打破しなければならないことぐらいはわかっている。
 経過を簡単に説明すると、
 策士策に嵌まる。
 もしくは、敵の方が一枚上手だった。
 と言うことだった。
 敵の奇襲に遭い、司馬懿率いる軍勢は散り散りになってしまったのだ。
 
 運が悪いなぁ〜。

 はぼやきながら、周囲を見渡す。
 矢筒の中の、矢は二十本足らず。
 途中で補給するにしても、現状を楽観できるような本数ではない。
 この数で乗り切れるか。

 ちょっと、ムリぃ〜。
 たぶん。

 敵が多すぎる。
 接近されたらアウト。の弓兵は辛い。
 戦場における弓兵の役目は、支援であり、敵の壊滅ではないのだ。
 しかし、いつまでも草陰に隠れているわけにはいかない。
 敵に気づかれないうちに動かなければ、それこそ終わりである。
 は慎重に矢をつがえる。
 弦を引き絞り、兵長を狙う。

 矢は風を切り、射抜いた。
 動揺が走る敵部隊に、は続けざまに矢を放つ。
 目的は、敵の離散である。
 混乱に乗じて、は草陰から飛び出した。
 一目散に、は駆け抜けた。
 逃げ足が速いのがの売りだ。
 毎日、紫のビームから逃れている甲斐もあって、その速さは魏軍一である。
 敵の弓矢が飛んできて、皮膚を切り裂くが、そんなことをかまっている場合ではなかった。
 とにもかくにも、山の上。
 この度の戦の最終目的地である。
 司馬懿に会えなくても、友軍がいるはずである。
 

「あれ?
 じゃん」
 どれぐらい走ったのか良くわからないぐらいたって、は強引に捕まえられた。
 肩をつかまれて、体がぐらりと傾ぐ。
「恵ちゃん先輩!」
 見知った顔に会って、は安堵した。
「一人?」
「はい、司馬懿様とはぐれちゃったんです」
「こっちも一緒。
 甄姫様に置いてかれちゃったよ。
 嫌な感じに敵が動いているね。
 一人で、良く無事だったね」 
 恵は笑った。
「どうにか。
 すっかり、ヨレヨレですけど」
 命が助かる、とわかった途端、疲労と傷の痛みを感じる。
 はその場でへたり込んだ。
 生きている。
 それが、とても不思議だった。
「こっちの方がヒドイさ。
 危うく、腕一本持ってかれるところだったんだ」
 明るい笑顔のまま恵は言った。
 満身創痍と言った具合で、立っているのが不思議なほどの怪我人は元気である。
「疲れてるんだろうけど、もうひと頑張りだ」
 恵はの二の腕を掴むと、立ち上がらせる。
「こっちに、味方の拠点地があるはずだから。
 そこまで行けるね?」


「こう言うところの壺は要注意。
 絶対、何か入ってるから。
 本当は、大怪我したら、本陣に戻るか、補給拠点に行ったほうが良いだけどね。
 進入拠点には、ろくなのないから。
 たまに壺がないところもあるしね。
 ほれ、肉まん」
「ありがとうございます」
「木箱には、矢束が入ってる。
 これも持っていきな」
「はい」
 は矢束を矢筒に入れると、肉まんをぱくついた。
 考えて見れば、半日も食べていなかったのだ。
「しっかし、良く無事だったねー。
 って、これ、どうしたの?」
 恵はがかけている首飾りに気がついた。
「これは司馬懿様から借りたんです」
「玄武甲じゃん。
 どうりで、平気なわけだよ」
 恵は首飾りを軽く触った。
「?」
「知らないの?
 すんごい高価なお守りだよ。
 たまーに殿が甄姫様に無理やり持たされているトコ見るよ。
 コレがあると、体がすごく頑丈になるんだってさ」
「そんなに高価なものなんですか!?」
「みたいねー。
 で、司馬懿様と合流する?
 それとも、本陣に戻る?」
 恵は尋ねた。
 その時、山頂から煙が上がったのが見えた。
 空に黒煙がたなびく。
 自軍の火計が成功した証だった。
「煙上がったね。
 あっちの司令官、終わったみたいだね。
 たぶん、この調子じゃ本陣も動いてるし。
 そっち、行っとこっかー」
 恵は立ち上がった。
「はい」
 も立ち上がり、矢筒を背負いなおした。


 敵を避けながら、あるいは敵軍を切り裂くように駆け抜けた。
 小高い丘の上、ようやく上官を見つけた。
 司馬懿の姿を見て、の顔に笑みが戻ったのは、一瞬のこと。
 少女の顔が引きつる。
 ありえないことに司馬懿が戦っているのだ。
 どう見たって、戦闘向きではないあの黒羽扇が舞っている。
 しかも、相手は槍である。
 
 司馬懿様〜、無茶ですぅ。

 は心の中で突っ込む。
 あの黒羽扇は、鋼鉄製に違いない。
 そうとしか思えない。
 槍を体の一部のように扱う敵武将相手に、一歩も引かない戦いをしているのだ。
 いや、黒羽扇からビームを出したり、大きな光球を駆使しながら戦う司馬懿。
 つばぜり合いまでできるのだ。
 はまだ若い敵武将に同情した。

 司馬懿様って、人間じゃないかも。
 どうやったらあんなビームとか、撃てるようになるんだろう?
 やっぱり、あの黒羽扇に秘密があるのかなぁ?
 今度、訊いてみよう。
 ……答えてくれなさそうだけど。

 は矢筒から一本、矢を抜く。
 
 男同士の勝負に水を差すなんて悪いけど。
 司馬懿様は、軍師なんだし。
 死んだら、勤め先なくなっちゃうし。

 弓の弦に矢をあてがう。
 キリキリと弦を引き絞る。
 狙うは敵武将の肩。
 動く標的。
 一歩間違えると、司馬懿に当たりかねない混戦状態である。
 極限まで弦を引くと、一気に放つ。

 矢は、カキンッと弾かれた。

 ごく短い間。
 敵武将と視線が絡んだ。
 完全に死角にいたに若い武将は気がついたのだ。

「この勝負は預けたぞ!」
 若い武将はそう言うと、逃げ去った。

 当たり前だが、司馬懿もこちらに気がついた。

「出て来い! この馬鹿めっ!」
 紫の光線つきである。
 元気があまりまくっている。
 戦場に立つと性格が変わるタイプなのだろうか。
 さっきまで、名のありそうな武将と一騎打ちしていたとは思えない。
「すみません」
 
 やっぱり、怒られた。

 悲しくなりながら、は木の枝から降りる。
 はしおしおと司馬懿の前に立った。
「遅い!
 今まで、どこで何をしていたんだ!!」
 置いていった方が言う言葉ではない。
 理不尽だと思いながら、叱責を受ける。
「申し訳ありません」
「護衛武将と言うものは、常に傍にいるものだろうが!」
 もっともなこと過ぎて、反論の余地はない。
「はい」
 は悲しくなって、身の置き場所が見つからなくなる。
 
 せっかく、がんばったのに。
 怖かったけど。
 ちゃんと……。

 涙があふれてくる。
 あと、3秒あったら、涙は完全にこぼれてた。

 ふわっと、頭に何か乗った。
 びっくりして、涙は引っ込んだ。

「心配するではないか」

 ひどくやさしい声だった。
 マジマジと声の主をは見た。
 ふいっと、司馬懿は視線を逸らした。
 ついでにの頭に乗っていた手もどけられた。

「行くぞ!」
「は、はい!」
 いきなり走り出した司馬懿をは慌てて追いかけた。

>>次へ