弓矢


 最近、司馬懿は不機嫌だった。
 もっとも、この軍師が魏に来てから、機嫌が良かった日は片手で数えるほどしかないので、年がら年中不機嫌なのだが。
 さらに拍車をかけるほど、最近は不機嫌だった。
 だからと言って、この魏軍。
 彼をいたわるような人間はいなかった。
 さすが、鬼畜が率いる軍勢である。

 さて、話がそれた。
 司馬懿が不機嫌なのは、原因があった。
 当たり前である。
 原因もなく不機嫌になる人間はいない。
 たとえ、それが八つ当たりだとしても、理由はあるのだ。
 
 彼が不機嫌な理由は、わかりやすかった。
 そのわかりやすさは軍師として、どうよ?
 と、他国から突っ込みが入りそうなものだが、わかりやすさが彼の売りである。

 彼が不機嫌な理由は、一つ。
 司馬懿の護衛武将・


 最近、こそこそと何かをしているのだった。
 しかも、司馬懿を避けている!
 彼が不機嫌になる十分な理由だった。


 司馬懿の書斎の真下。
 開けっ放しになっている窓から、その声はした。
 司馬懿は、相手から死角になるように窓に寄る。

「夏侯淵様ぁ〜」
 の能天気な声が響く。
「おう、どうした?」
 調子よく答える夏侯淵。
「ちょっと、いいですか?」
 無邪気には言う。
 小柄な少女は夏侯淵の袖を引き、耳に何やらささやきかける。
「そりゃあ、良かったな」
 夏侯淵はニコニコと笑う。
「夏侯淵様のおかげです!」

 明確な殺意というのはこんな時に湧くのかもしれない。
 気がついたときには黒羽扇を振り下ろしていた。
 紫色のビームが、平和な昼下がりを切り裂く。

「あ、司馬懿様!」
 ニパッとは笑った。
「おう、じゃあ、俺は仕事があるからな」
 夏侯淵は司馬懿の行動を全く気にせず、にこやかに立ち去る。
「ありがとうございました」
 は夏侯淵にペコッと頭を下げる。
「司馬懿様、聞いてください!
 そっちに行きますね!!」


「聞いてください!」
 開口一番には言った。
「聞いている」
 不機嫌に司馬懿は応じる。
「夏侯淵様って良い人ですね」
「……そんなことを言うために、ここに来たのか?」
「前置きってものです。
 司馬懿様って、せっかちさんですね」
「……早く、話せ」
「ずっと憧れていたんです。
 初めて夏侯淵様を見たときから、決めていたんです。
 夏侯淵様はやさしい方ですから、私みたいな人間でもちゃんと相手をしてくれて。
 最初はぶしつけかな? って思ったんですが。
 当たってくだけろ、って感じでお願いしたら。
 すごく親切で、上手で。
 感激です。
 私、初めてだから、ちょっぴり緊張しましたけど」
 はもじもじと言う。
「さっきから、聞いておれば……。
 お前は誰の護衛武将だ!」
 司馬懿はキレた。
 ついでに、紫のビームまで放つ。
「もちろん、司馬懿様です」
 キレイにビームを避けて、は答える。
「それでですね。
 五本同時に、矢を射れるようになったんです!」
 嬉しそうには言った。

「は?」

「夏侯淵様の妙技を教えてもらったんです。
 ほら、神速で五本矢を番えるヤツです。
 蜀軍の黄忠もできる」
「……弓の話か」
 司馬懿はつぶやいた。
 勘ぐりすぎていた自分が、馬鹿っぽい。
 お子様な護衛兵に、色恋沙汰などあるはずがない。
「これからはもっと司馬懿様のお役に立てます!」
 健気にもは言った。
 その黒い瞳の曇りのないキラキラしさに、司馬懿は思わず目を逸らした。
「それで五本撃って、どの程度当たるのだ」
「えーっと、聞いちゃダメです。
 そんなこと」
「命中率が低いなら、無意味だな」
 司馬懿は鼻で笑った。
「がんばります……」
 はしおしおと言う。



 この日から、ちょっとばかり機嫌の良い軍師殿がいたそうだ。

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