お菓子


 司馬懿の護衛武将は本当に続かない。
 理由はいくつかある。
 そのうちの一つは、護衛に関係ない仕事までやらせることである。
 腕に自信ありと、自薦他薦されてきた者たちにとって、屈辱的なことをさせるのだった。
 たとえば、お茶汲みや、書類整理。
 それは文官や女官の仕事だろう、と言うものを、わざわざやらせるのだ。
 司馬懿が軍師と言う立場上、戦場に立つことは少ない。
 彼の仕事は、最前線に立って高笑いをしてくることではないのだ。
 新米護衛兵のも、その洗礼に晒された。

「司馬懿様、お茶です」
 ニコニコ笑いながら、は卓の上に茶碗を載せた。
 実のところ、少女はこの仕事が好きだった。
 安全な上に、お給料は変わらないのだ。
 故郷に仕送りをしなければならない身としては、ありがたいことである。
 司馬懿は少女を見ずに、茶碗に手を伸ばす。
 それから、一口飲む。
 はくりっとした大きな瞳で、司馬懿の顔を凝視する。
 かなり失礼な振る舞いなのだが、相手がこちらを見ていないのだから、問題はない。
 ドキドキしながら、司馬懿の顔を見つめる。
 ……残念ながら、恋ではない。
 上官の蛇みたいに冷たい顔から、感情を必死に読み取るためである。
 曹丕のように、あんな邪悪な悪役のような表情を年がら年中、浮かべているわけではないが、司馬懿もまた不機嫌な顔がデフォルトである。
 五十歩百歩。
 嫌なところが似ている主従関係だ。
 茶碗は元の位置に戻された。
 司馬懿は竹簡の続きが気になるらしく、バラッと一気に広げる。
 お茶は合格点だったらしい。
 は心の中で、勝利の決め台詞を叫んだ。
 ちゃんと、心の中で。
 この少女、単純明快な造りをしていた。
 思ったことが顔に出る。
 もちろん、雰囲気からもろバレである。
「騒がしい」
 一言も喋っていないのに、司馬懿から注意が入る。
 小言を言われるのに、たった一週間で慣れてしまったには効き目が薄い。
「そこの書類を殿に届けてくれ」
 司馬懿は不機嫌に竹簡の山を指す。
「はーい!」
 嬉しそうには返事した。


 一抱えもある竹簡をしっかり抱えて、は目的地に向う。
 曹魏の本拠地でもあるこの城、やたら大きくて、やたら入り組んでいる。
 は迷子にならないように気をつける……のだが。
 前途多難である。
 お使いはこれが初めてではないのだが、何しろ迷子になってくれと言わんばかりの造りの城だ。
 同じような廊下、同じような部屋の並び。
 どこがどれだが、庶民には判別できない高等な造りである。
 は耳を澄ます。
 弓兵の特徴でもある敏捷性と目の良さ、耳の良さは、新米兵のにも備わっていた。
 特徴のある笛の音が風に乗ってくる。
「あ、発見♪」
 はニコッと笑う。
 お気の毒なことであるが、いつも利用させてもらっている。
「曹丕様、今度は何したんだろう?」
 スキップをしかねない勢いで、は軽やかに歩く。
 一方的な夫婦喧嘩のおかげで、お使いを果たせるのだ。
 感謝しなければならない。
 妙に香ばしい匂いが漂う扉をはノックする。
「失礼します。
 司馬懿様から、お届けものです」
 はニカッと笑い、竹簡を差し出す。
「あら、お疲れ様」
 傾国の美女が艶やかな微笑みを見せる。
 その向こうには、無双乱舞が全発入ったと思われる夫君が床に倒れていた。
「曹丕様に」
 よれよれになっている姿は見なかったことにして、は大きな卓の上に竹簡を載せる。
「仕事に慣れてきたみたいね」
「はい、おかげさまで」
は本当に元気ね。
 辛いことがあるなら、何でも相談してね」
 下にしく、上に厳しく。
 女性には甘く、男性には冷たい。
 と言う、お姉様体質の甄姫である。
「ありがとうございます。
 困っていることは、特にありません。
 司馬懿様も、とても良い人で助かってます」
 はニコニコと答える。
「まあ、あの司馬懿殿が良い人?」
「失敗しても、最終的には許してくれますし。
 一見、冷たそうに見えますが、思ったよりも普通の性格ですし。
 たまにお菓子をくれるんですよ」
 純真な少女は言った。
 食べ物をくれる人は良い人。
 この公式は、貧乏人にはとっては絶対である。
「そう。
 はお菓子が好きなのね。
 ちょうど、私のところにもお菓子があるのよ。
 持っていきなさい」
 甄姫はニッコリと笑うと言った。
「はい」
 はうなずいた。


「と言うわけで、もらいました!」
 園児が幼稚園の先生に報告するように、も司馬懿に報告した。
「それで、殿は?」
 司馬懿は落ち着きのない護衛武将を見た。
「さあ?
 夫婦喧嘩の後って、気まずくありません?
 詮索なんてできませんよ。
 あ、でも喧嘩の原因は知ってますよ。
 魚ちゃん先輩に、言わなくても言いことを曹丕様が言ってしまったからです。
 これは恵ちゃん先輩から教えてもらいました」
「まあ、良い」
 ためいきと共に司馬懿は言った。
「一緒に食べましょう。
 甄姫様から、二人で食べるように念押しされたんです」
 はいそいそとお菓子が入っている包みを広げる。
 おいしそうな焼き菓子の匂いが部屋の中を満たす。
「私はお菓子が好きではない」
「知ってますよ」
 は無邪気に答えた。
 だから、は司馬懿からお菓子をもらえたのだ。
「一人で食べると良い」
「ダメですよ!
 二人で食べなきゃ!
 甄姫様から、絶対に二人で食べるように言われたんです!」
「二人で食べたことにすればよい。
 何、見張られているわけではないのだ。
 バレなければ良いだけのこと」
「嘘をつくなんてダメですよ!」
「嘘ではない。
 黙っていれば良いだけのこと」
「確信犯ですよ、それ。
 第一、絶対バレます」
 バレて、甄姫から笛の音をフルバージョンでもらいたくはない。
「私、すぐ顔に出るんです」
 は瞳を潤ませて、つぶやいた。
 きっと、明日の今頃はベットの上だ。
 超音波のような笛の音を聞いて、悶絶するに違いない。
 ……敵軍の兵士に斬られるのも痛いだろうけれど、笛の音で天国へ行かされるのはどんな気分なんだろう。
「茶がぬるくなった。
 もう一つ淹れろ」
 司馬懿の命令に、半泣きになりながらはお茶を淹れる。
 明日が来なければ良いのに。
 甄姫様に会わなければ良いだけなのだけれど……ムリ。
 と、は未来の自分に同情した。
 ぬるくなった茶碗の方を下げようとしたら、阻まれた。
 司馬懿が茶碗をつかんでいるのだ。
「あのー、それじゃあ、下げられないんですけど」
 は困惑した。
「下げなくて良い」
「はあ」
「椅子を持って来い」
 司馬懿は部屋の隅に置かれている木の椅子を示す。
 言われた通りに、は椅子を卓の側に置く。
「座れ」
「はい」
 納得のいかないまま、は座った。
 淹れたての茶碗がの前に置かれた。
 司馬懿様の指って、男の人にしては細くて長いよねー。
 白いし、羨ましい。
 と、は暢気なことを考えていた。
「特別だ」
 滅多に見られないとウワサの微笑みを司馬懿は浮かべた。
 も初めて見る司馬懿のやさしげな微笑みに驚いた。
 心臓がドキッとして、落ち着かなくなる。
「一つだけもらう。
 後は全部、お前が食べろ」
 司馬懿は焼き菓子を一つ口に含むと、お茶で流し込んだ。
 あまり好きでないものを食べて、司馬懿は不機嫌な顔をした。
「司馬懿様って、意外にやさしいんですね」
 は感心した。
「意外とは何だ?」
「いや、つい。
 思っていることを」
「ずいぶんとうっかりとした口だな、これは」
 司馬懿の指がのほっぺたをつねる。
「いひゃいでふー!」
 は涙目になりながら、訴える。
 けれども、意地悪な上官がやめるはずもなく、はしばらく玩具になっていた。

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