「うわぁ、すごーい」
幼さが残る少女は思わず歓声を上げた。
目の前には、壮大なる城壁があった。
ここは業β(ギョウ)。
三国の雄の一つ、曹魏の本拠地である。
少女の名前は、。
その小さな背には矢筒があり、左手には使い込まれた弓が握られていた。
彼女はようやく、一歩を踏み出したばかりの新米護衛兵だった。
戦争中は、どんなに人がいても人手が足りないもので、お転婆娘のにも出世のチャンスが巡ってきたのだ。
亡き父について回って、野山を駆け巡った甲斐もあったと言うものだ。
嫁の貰い手は失ったが、就職先は見つかった。
しかも、太っ腹なことに、衣食住は保障されている。
下手に結婚するよりも良いかもしれない。
破竹のごとき勢いの魏軍だ。
そうそう、潰れたりはしないだろう。
できるだけ戦場に出ながら、長生きして、報奨金を稼いで稼ぎまくる。
小さな弟妹たちの明日のご飯の心配をしなくても良いのだ。
は期待に満ちた瞳で、壮麗な城を見上げたのだった。
新米護衛兵は男ばかりで、女のは変な意味で目立っていた。
槍の手入れをしている屈強な兵士や、不思議な形の杖を手にしている青年とかを見ていると、自分が場違いな気がしてくる。
いや、むしろ彼らと同じ兵舎に突っ込まれるのだろうか?
まだ嫁入り前の大切な体なのにぃ~。
はビクビクしながら、時が経過する音を聞いた。
さすがの魏軍もそこまで扱いが酷くないらしいことに気がついたのは、たっぷりと一刻後(2時間後)。
ちょっとばかり、が女の子に見えなかったのと、新米の護衛兵にかまっている暇が中央になかったのが、理由である。
しかも、その遠因が夫婦喧嘩と言うのが報われない。
まあ、新米弓兵のが知るはずのない事実である。
とにかく、一刻後。
美しい女性二人組が、新米兵でひしめく面接会場に現れたのだ。
全くタイプの違う美人の登場に、会場はどよめく。
腰に剣を帯びた快活な感じの美人と、羽扇を持つ落ち着いた容貌の美人。
どちらも捨てがたい美人の登場に、はうっとりとした。
男ばっかりと思ってたけど、ちゃんと女性もいたんだぁ~。
がそんな暢気なことを考えていると、二人組が近づいてきた。
「ほら、ちゃんと女性がいたでしょう?」
羽扇を持つ女性が典雅に微笑んだ。
「ホントだぁ。
面接官のミスだよ、コレ。
魚、よくわかったなぁ」
「ええ、殿が見つけたんです。
書類で、見つけたんですけどね……」
歯切れ悪く魚と呼ばれた女性は言った。
「なーる。
それで、夫婦喧嘩?
あいかわらず、お熱いようで。
私は、恵。
ヨロシクね、後輩ちゃん」
「はい、よろしくお願いします」
はぴょこんと頭を下げた。
「私は魚です。
女性がこんな場所にいてはいけませんよ。
私たちの兵舎に案内してあげます」
「はい、ありがとうございます!」
はニコッと笑った。
二人の先輩は、仕える主が決まっていて、もう何度も戦場に立ったことがある歴戦の護衛武将だった。
魚ちゃん先輩は、殿こと、曹丕様の護衛武将で、
恵ちゃん先輩は、その奥方の甄姫様の護衛武将。
すっごい先輩が二人もできて、はびっくりしたのだが、実はまだびっくりすることは待っていたのだった。
翌朝。
新品の護衛武将の制服に身を包んだは緊張した面持ちで、その戸を叩いた。
これから、守るべき主に会うわけだが……。
いかんせん、事前情報が良くなかった。
会う前から相手を判断するのは良くない、とは思うのだけれど。
悪すぎるウワサばかりだと相手の人間性を疑ってしまっても、それは仕方がないこと……だと、思う。
入室の許可がいつまでも出ない。
新米のは、途惑う。
許可もなく勝手に入ったら、普通怒られる。
かと言って、いつまでもこんなところにつっ立っているのも、どうだろう。
こんなときにどうすれば良いのか、誰も教えてくれなかった。
いきなり、壁にぶち当たってしまった。
ドキドキしながらも、はノックした。
しばらく待つが、やはり返事がない。
こうなると、考えられるのはいくつかしかない。
まず、部屋にいない。
部屋にいないなら、返事のしようがないし。
でも、相手が時間を指定してきたのだ。
わざわざ、不在の時間を選ぶなんて……ありえそう。
第二に、部屋にいるけれど、眠っている。
寝ているなら、返事は当然できない。
でも、護衛武将と初めて会うのに、典雅に居眠りができる人間なんて……いそうな気もする。
第三に、からかわれている。
これは大いにありそうだった。
気難しい人らしいし……。
どれなんだろう?
は小首をかしげながら、ノックをした。
やっぱり返事が返ってこない。
第四は、部屋がそもそも違う。
方向音痴ではないので、やっぱりこれは相手の意地悪の一つだ。
どこかで、の様子を見ているに違いない。
第五は……。
の考えは中断された。
ドンッ!!
物が当たる鈍い音が戸の内側からした。
びっくりして、は入室した。
室内で異変が起きたのかもしれない。
護衛兵らしく、は素早く室内を見渡す。
すぐに目に入ったのは、烏の黒い羽が散乱しているところだった。
足元には、黒い羽扇がぶん投げられていた。
どうやら先ほどの鈍い音は、これが戸に当たった音だったらしい。
「拾え」
不機嫌な声が命令した。
命令されるのに慣れていたは、素直に羽扇を拾い上げる。
重ッ!
羽扇は、見た目よりも重量があった。
むしろ、これは本当に羽でできているのだろうか?
鉄の塊だと言われた方が納得できる。
ぶつけられた戸には、妙なへこみがあるし……。
は振り返り、仕える主君を見た。
大きな卓にあふれかえるような竹簡が積み上げられた奥に、その男――司馬懿はいた。
ウワサどおりに、血色の悪い顔である。
何を食べたら、そんな顔色になれるのだろうか。
不思議に思うぐらい真っ青である。
「お前は啄木鳥か?」
今どき、悪役ですらそんな話し方をしないだろう、と思うぐらいに悪役じみた嫌味ったらしい喋り方で司馬懿は言った。
「いえ、人間です」
真面目には返答した。
「木偶には高等すぎたか」
訳のわからない独り言をつぶやくと、司馬懿は視線を書類に戻した。
「今日から、よろしくお願いします。
司馬懿様の身辺警護を任されました、と申します」
は深々と頭を下げた。
「羽扇を返せ」
司馬懿はの方を見ずに言った。
「これ、司馬懿様のものなんですか?」
は卓の上に、羽扇を置いた。
ちらりと、司馬懿はを見た。
「ここから投げて、あそこまで届くなんて、どんな訓練してるんですか?
軍師って聞いたんですけど?
実は、武将なんですか?
むしろ、この羽扇何でできてるんですか?
戸に妙な穴が開いてますよね?」
は期待に満ち満ちた目で司馬懿に尋ねた。
「黙れ」
司馬懿は短く言った。
「ケチですね」
あっけらかんとは言った。
「それで一つ質問なんですけど。
どうして、私を選んだんですか?
他にもいっぱい強そうな人がいますよね。
気になっちゃって、昨日夢にまで出てきたんです。
教えてください」
は気にせず、質問した。
「殿から通達があった。
戦に出る者は、全て護衛武将をつけるように、と。
私の元では、どんな者も長続きしない。
それなら、新米でもかまわないと思ったまで。
選んだのは、私ではない。
面接官が適当に人選したのだ」
手にしていた筆を置き、司馬懿は答えた。
「長続きしない理由知ってますよ。
司馬懿様がいつも、護衛兵をいびるって。
兵舎でウワサになっていました!」
元気には答えた。
「後先を考えない性格だと言われなかったか?」
「ああ、良く言われます。
……今、ちょっと後悔しています」
は命の危険を感じた。
これは、もしかして逆鱗にさわってしまったんじゃないのだろうか……。
「そうか……と、納得するとでも思ったか!
この馬鹿めっ!」
司馬懿はすくっと立ち上がると、羽扇を振り下ろした。
シュンッ!
紫色の光線が放たれる。
条件反射では避ける。
「それ、反則ですよ!
その怪しげなビームは何ですか!?」
「避けるな、この馬鹿めっ!」
さらにビームが追加される。
目に大きな涙をためながら、は逃げ出した。
しかし、紫色の光線は追尾性抜群で追いかけてくる。
しかもぐいっと方向が曲がるのだ。
ありえない!
追ってくる上官に最速の逃げ足では走り出した。
「まあ、我が君。
二人はもう仲良くなったようですわよ」
麗らかな昼下がり。
甄姫は庭を指し示す。
隣にいた夫である曹丕は、窓の外を見遣る。
紫色の光線から必死に逃げようとする新米護衛兵と、それを追いかける司馬懿がいた。
「ふっ。
また息切れを起こして倒れるな」
面白い出し物を見るように曹丕は、口の端を歪めた。
「司馬懿殿の護衛兵は、我が君の人選だとか?」
「長続きせぬからな。
いっそのこと、笑えるような組み合わせの方が、飽きがこないだろう」
「まあ、本当にそれだけですの?」
妻の瞳の中に剣呑な光を見出して、曹丕はギクリとする。
やましいことはこれっぽっちもないのだが……。
「もちろんだ」
曹丕は慌てて断言した。
「実は、お聞きしたいことが一つありますのよ」
有無を言わせぬ美しい微笑みは、地獄へのお誘いであった。