幸せの可能性


 砂で楼閣を作るように。
 水で文字を書くように。
 頼りないものの上に、新しいものを築くことはできない。
 瓦礫の山に咲くのは赤いものは、花ではなく人間の身の内に流れる生命であり。
 その山で響く高い声は、鳥ではなく生命が尽きようとしているものの最期の願いである。
 夢を見ようにも、目をつぶることはできない現状が存在していた。
 時代は残酷で、むごたらしい季節を用意した。

 乱世。

 その一言ですまされてしまう時代に、青年は生を受けた。
 長ずるに従って、文をよく好むようになった。
 学者の家系であったので、よくよく喜ばれ、青年はより励んだ。
 だが時代は乱世だった。
 明日の覇権を手につかもうと、己を自負する者たちはより多くの才ある者を求めた。
 一人でも多く。
 知のある者を、腕の立つ者を。
 好敵手たちよりも多く、どんな手を使ってでも支配下に置く。
 それが常識で、当時では当然のこと。
 個人の夢や希望というものは、割りこまない。
 ただただ力があって、それは暴力的だった。
 青年には野心はなかった。
 望みはあったが、それは野心と呼ぶにはいささか難しいものだった。
 少なくとも冠たる存在が世界を照らしている間には、問題とするほどのものではない小さく……大きな望みしか持っていなかった。
 だから、青年は時代の流れに従った。
 傍から見たら唯々諾々と。
 逆らうことによって、小さな望みはかき消えると知っていたからかもしれない。

 そうして司馬懿は、皆が知っているような司馬懿になった。

 だが、青年は諦めてはいなかった。
 正しくは、意識していなかった。
 当人は埋葬してしまった気になっていたが、その胸の内にひっそりとただずむ物があった。
 小さく、大きな望み。
 限りなく『無』に近い可能性。
 けれども『無』ではない可能性。
 青年は努力せずにはいられなくなる。
 手に入れる努力。
 否、作り上げる努力。
 積み重ねていく努力だ。
 それは砂で楼閣を作るようなものかもしれない。
 それは水で文字を書くようなものかもしれない。
 絶無ではないからこそ、青年は努力する。

 いつか、それにたどり着くことを。
 その中で生を終えることを。

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