想い出は淡く。
事実という贅肉をそぎ落として、印象だけになる。
心に灼きついた影だけが残る。
「司馬懿様には願い事がないんですか?」
黒い大きな瞳がキラキラと輝いていた。
それこそ真夏の太陽のように。
呆れるぐらい暑苦しく。
「特にはない」
司馬懿は答えた。
「じゃあ『ちょっと』はあるんですね」
はニコッと笑った。
「ない、と言っただろうが」
「『特には』って司馬懿様は言いました。
だから、願い事があるんですね」
「お前の思考回路はどうなっているんだ?
ないものは、ない」
司馬懿は言った。
「私、知っていますよ。
そういう風に言うときは『ある』んです」
自信たっぷりに小柄な護衛武将は言った。
「根拠あっての物言いだろうな?」
「私のすぐ下の弟がそうなんですよ。
私と違ってすっごく頭が良いんですけど……って言っても司馬懿様に比べたら、まだまだなんですけど。
本当は欲しいのに、家族のこととか考えて『いらない』っていうときは、そんな感じなんです」
「ほお。
私はお前の弟と同程度に『幼い』と言いたいのだな?」
「ち、違いますよ!
だって似ていました!
雰囲気とか、そういうのが!」
は焦って言葉を紡ぐ。
「それに願いがない人間なんていません!
みんな将来とか、明日とかに、夢とか希望とか持っています」
少女は司馬懿が捨て去ったものを挙げる。
懐かしい、と感傷するようなものではない。
ひりつくように心を叩くものだ。
「お前は幸せだな」
司馬懿は嫌味を口にした。
大きな黒い瞳がきょとんとする。
青年の言葉を飲み込むまで一呼吸。
少女は目をパチパチと瞬かせてから……それから、笑った。
夏の影のようにくっきりと笑った。
「はい、幸せです!」
当然ことのように言い切った。
この上ないくらい嬉しそうには笑う。
「司馬懿様の護衛武将になってから毎日、幸せです。
故郷にいたときも幸せでしたけど、もっと幸せになりました。
人間って、どんどん幸せになれるんですね!
明日は、きっと今日よりもずーっとずーっと幸せですよ」
一つの真理だ、というように少女は言った。
そこにあったのは強さ。
真夏の日差しを浴びて咲く花のように。
水の少ない地域でもしっかり根を張るような植物の鮮烈さ。
「それで司馬懿様の願い、って何ですか?」
は尋ねた。
「ない、と言っただろうが」
青年は吐き捨てるように言う。
「司馬懿様の願いは叶いそうですか?」
「叶うなど……」
司馬懿は言葉に詰まった。
願い事のない人間はいない。
無知な護衛武将は、世界の真理をきちんと握りしめている。
無欲な人間は、他の者と違う欲を持っているから、欲がないように見えるだけだ。
世間の大多数の欲とズレがあるだけだ。
無知な人間は、他の者と違う知を持っている。
世間が必要としている知識とは違う知識や知恵を手にしているのだ。
司馬懿は息を吸いこんだ。
願いはある。
希望や夢もある。
いつからか、声に出さなくなっただけだ。
頑是無きころは堂々と言えたものが、歳を重ねただけで言えなくなった。
願いを口にしたら、必ず自分の力で成し遂げなければならないような気がした。
明日もわからぬ身に、それは大それた願いのように感じて、考えることをやめてしまったのだ。
「叶う可能性は、どれぐらいありますか?」
無責任な問いだった。
望みが薄い、願い事だからこそ……。
「ゼロじゃないんですね!
じゃあ、叶いますよ。
だってまだ時間はたくさんありますよ!
今日があって、明日もあって、まだそれから先もあります」
だから叶いますよ、と護衛武将は笑った。
司馬懿の唯一の護衛武将が……笑った。
明日がわからぬ身なのは、武将よりも護衛武将のほうが上だろう。
さして歳を重ねていない少女は『今日がある』と言った。
青年が忘れていたことだった。
「願いなどないと言っているだろが」
司馬懿は言った。
「はい!」
何もかも知っているような顔をして、はうなずいた。
想い出は淡く。
子どものころ描いていた夢のように、淡く。
真夏の太陽が落とした影のように深く。
心に灼きつく。