世界は美しい


「仲達、世界は美しいな」

 呟きは虚空に溶けていきそうなほど、儚かった。
 魂まで凍えそうなほど冷たい風が吹く院子で、魏王は立ち尽くしていた。
 身分相応の装いがどこか借り物のようで、頼りげなかった。
 傍に控えていた痩躯の男は、返事を思案する。
 抽象的な問いかけに、肯定すべきか、否定すべきか。
 どちらも望んでいるようで、どちらも望んでいないようだった。
 この場合、一番近いのは、独り言だろうか。

「そなたの目には、美しく映らないようだな」
 微笑と苦笑の間の笑みを浮かべ、青年は振り返った。
 空を映した双眸は、常よりも青みが強く見えた。
「あいにくと、景色を愛でるような感性は、母の腹に置いてきてしまったようです」
 司馬懿は言った。
「そうか」
 曹丕はそう言うと、また視線を空へと戻す。
 雲一つない空にどんな価値があるというのだろう。
 詩人の魂を理解できるはずもなく、君主が諦めるまで控えていることに、やや退屈を覚えていた。

「世界は美しい」
 味わうように、曹丕はもう一度くりかえす。
 新しい詩の題材にでもするのだろうか。
 司馬懿がそんなことを考えていると
「おそらく私が死んだ後でも、世界は変わらず美しいのだろう」
 青年は何の感情もなく言った。
 存在感が淡い状態での言葉は、冗談には聞こえない。
 このまま、乱世の荒波に呑まれてしまうやもしれぬ。
 そんな不安を抱かせるほど、青年に覇気が足りなかった。
「何をおっしゃります」
 司馬懿は聞きとがめる。
「父が死んでも、世界の美しさは変わらない。
 違うか?」
 魏王になったばかりの青年は、臣下に問いかける。
「そのようなことを尋ねられましても、世界の美しさは図りかねます」
 司馬懿は表面だけの返事をした。
「では仲達にもわかる問いにするとしよう。
 父が死んで、嬉しいか?」
 曹丕は問う。
 厄介な問いだったが、この院子は貸し切り。
 虚偽の中に真実の一葉を混ぜたとしても、わからないだろう。
「ようやく、殿の御世でございますから、嬉しゅうございます。
 ずっと、この時をお待ちしておりました」
 司馬懿は答えた。
 蒼い双眸がかつての家庭教師を見て、笑った。

「私もだ」
 
 冷たい風が梢を鳴らす。
 寒々しい音と同じ響きで、青年は言う。
「父が死ぬのを待っていた。
 私は長いこと『子桓』であった。
 すでに息絶えようとしているものの、柱であった。
 ……ようやく、私は私に戻るのだ」
 青年の本性がこの場の空気をさらに冷え込ませる。
 司馬懿は、ゆっくりと息を吐き出した。
「では、玉座が必要ですな」
 痩躯の男は言った。
 父が死に、子桓と呼ぶ者もいなくなり、ようやく『丕』になる。
 生れ落ちたときに与えられた名は、地の支配者たる意味の字。
 成人したときに与えられた名は、地の支配者を補佐する意味の字。
 二つの意味に拘束されていた青年は、ようやく自由になった。
「良き日を選んでおけ」
 帝王は命を下す。
「お任せください」
 臣下は慇懃に頭をたれる。

「父に字を呼ばれるのは、それほど嫌なことではなかったな」
 後悔とも憧憬ともとれる言葉を呟き、青年は歩き出した。
 それを司馬懿は影のように、追いかける。

 世界は美しい。
 人の営みなど、ささやかに過ぎない。
 誰が死のうとも、世界は変わらない。
 だから、世界は美しい。
 と、くりかえすその裏にある感情は、悲しみだろう。
 素直に父の死を悲しむことのできない教え子を、司馬懿は哀れんだ。


ダブル・バインドダブル・ミーニングの流れを組んだ話です
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