花なりたかった

 誰も彼もが司馬懿を置いていく。
 いくつ花を摘んだだろうか。
 それを棺に添えたのだろうか。
 風が強く吹き、野に咲く花を揺する。
 鮮やかな色の花弁が今にも散りそうだった。
 そこに、過去を重ねる。
 還ってこない人々を思う。
 自分は天国なんて行けそうにないから、二度と会うことはないだろう。
 血を流しすぎた。
 まるで夕焼けのように、曹魏の旗には似つかわしくないほど。
 策略を巡らせて、生き残ることだけを考えた。
 夢を見ていたのかもしれない。
 託したかった想いは無惨に散った。
 花が散るように。
 司馬懿は、名もなき花のように一心に咲いていたかった。
 何も知らずに太陽の光を浴びていたかった。
 今頃、司馬懿を置いていった人々は天国で笑っているだろうか。
 そこには平穏があるのだろうか。
 司馬懿が焦がれてやまない平和があるのだろうか。
 落日のような色の血を流さなくてすむのだろうか。
 所詮は夢。
 望みのためなら、勝ち取らなければならない。
 そうすれば手のひらに転がってくるだろう。
 それまで生き続けることが、司馬懿にできる贖罪だった。
 流した血はすべて飲み干そう。
 子らには浴びた血を見せるわけにはいかない。
 たとえ戦場に立っているとしても。
 野に咲く花になりたい。
 そんな司馬懿の願いを知られてはいけない。
 だから一輪、摘んだ。
 仲間外れになった花は、まるで自分のようで。
 置いていかれた苦しみを味わう。
 ただ生きていたかっただけだ。
 ただ顔見知りたちと笑いあっていたかっただけだ。
 そんなささやかな願いも叶わない。
 摘まれた花を散らさないように気をつけて、司馬懿は歩き出した。
 新しい棺の中に入れるために。
 手ずから摘んだものだと知ったら喜んでくれるだろうか。
 もう口をきかない死者に対して偲ぶ。
 今でもその笑い声を思い出す。
 どこにでもいるような、それでいて特別だった人。
 司馬懿は立ち止まり、野原に振り返る。
 サヨウナラを告げることが重い。
 先延ばしにしたい。
 それでも風が司馬懿の頬を撫でる。
 立ち止まることを許さない、と言うように花たちが揺れる。
 司馬懿は眩しい日差しに目をすがめた。
 そして、また歩を進めるのだった。
 必ず来る明日のために。
 乞う希望のために。
 もう二度と振り返らない。
 そう決意をして、摘んだばかりの花を握り締める。
 誰も彼も叶えてくれなかった夢のために。

短文に戻る