「民の泣かぬ道ならいい」
青年が唐突に言った。
蒼炎のような瞳は空を見上げたままだった。
曹魏を意味するような深い青空だった。
「民草の泣き声はうるさいからな。
絹を引き裂くような声で泣く」
この地を平らにした皇帝は言った。
それは司馬懿に説くようだった。
「臣も民草の一つならば、その意味を解りかねますが」
司馬懿は首を垂れたまま言った。
「欲しかったのだろう?
この地をくれてやる、と言っているのだ。
そなたなら上手く御せるだろう」
曹丕の言葉に司馬懿は脂汗をかく。
「野心があると思われているのは心外です。
私は殿の治世を望んでいただけでございます。
一度も味わったことのない平和の中で、風にそよいでいたいだけです」
司馬懿は言葉を紡ぐ。
欲しかったのは平穏だ。
またやってくる動乱の地などいらない。
頭を上げ、青年を見た。
冷徹な光が宿っていた。
「そうか。
存外、慎ましやかなのだな」
青年は言った。
ほのかに唇に笑みを乗せる。
「そなたなら、譲っても民は泣かないと思ったのだが」
「曹叡殿がいらっしゃるではありませんか」
「あれは優しすぎる。
いったい誰に似たのだろうな。
こんな酷な道を歩ませたくない」
曹丕は司馬懿を見た。
蒼炎の瞳は懐かしむように細められた。
「殿に似たのでございましょう」
司馬懿は言った。
「そんなことを言うのはそなただけだ。
良い臣下に恵まれたと思えばいいのだろうか」
ためいき混じりに曹丕は言った。
「ありがたき幸せにございます」
司馬懿は、今一度、首を垂れた。
蒼穹のように大きすぎる人物に深く、頭を下げた。
きっと自分では地をなだらかにすることはできないだろう。
それほどの強さはない。
長く続く平穏の中で揺れているのがふさわしい。