それは惹々と、胸の中を占める感情。
緩やかに締めつける気持ちは、時に不快だ。
重く、鈍く、心の奥底で、沈んでいる。
まるで盛夏の庭院の水花。
それを咲かす泥のように、暗く濁っている。
曹魏の跡取りと目される青年は、立っていた。
何もかもを拒絶するような空気をまとって、ただ佇んでいた。
青を含んだ灰色の双眸は、凪いだ池を見つめていた。
柳の季節にはまだ早く、見るべきものなど何一つない。
打ち捨てられる、その寸前の有様の池のほとりに、青年は立っていた。
ほんのわずか、落とされた肩のため、傍からはうかがい知れない、その表情は、やはり平時のものと違いはなかった。
無感動、無表情。
手がかりになるようなもの一つ、まとっていなかった。
全てを拒絶するような、厳しい気配が、庭院の様子とひどく釣り合いが取れていた。
回廊を渡る者たちは、目を奪われ、その調和に感嘆し、また自分のつまらない職務に戻っていくのだった。
誰も声をかけられない。
見事な調和を崩すことなど、もったいなくてできない。
あるいは、その調和を崩した瞬間に訪れる罪悪感に耐えられない。
すぐさま向けられるだろう凍てついた眼差しと無関心を想像するだけでも、恐ろしい。
そうして、孤独は生み出される。
彼は彼ゆえに、独りとなる。
寂しさも、苦しみも、何も知らずに、何も感じずに、立ち尽くす。
青年を形作るものは『理想』だった。
この世が神のものではなくなったときから、人が見た夢。
まだ叶えることのできない。
けれども、叶えたい。
長いこと願い続けたせいで、ひび割れ、乾ききった、散り砕かれる直前の夢だった。
妄執にも似た、強すぎる渇望が<彼>を作り出した。
理想郷へと人を誘う、人であらざるもの。
人間の上に君臨する『王』。
だから、彼は正しいことだけを教えられた。
青年は、池の中を覗き込む。
凪色の水面は、ぼんやりとした影を映しこむだけだった。
泥ににじむ己の姿に、手を伸ばす。
影と同化したかったのか、泥の世界こそ似つかわしいと思ったのか。
それとも、自分自身を消し去りたかったのか。
ゆらりと青年は池に吸い寄せられ
「我が君」
真っ白な手が青年の手をつかんだ。
ホッとして、曹丕はそのあたたかな手の持ち主を見つめた。
「まだ、水は冷たいですわよ」
朝露に濡れながら、しっとりとほころぶ花のような笑みだった。
かぐわしい香りに青年は目を細める。
「甄」
「はい」
甄姫は笑みを深くした。
名を呼び、返事が返ってきた。
それだけのことだった。
どこにでもある、当たり前のことだった。
普遍的で、日常の中、何度でもくりかえされる事柄だった。
昨日までもそうであったし、これからもそうであろう、と。
誰も注目などしない、慣れきったことだった。
「感謝する」
曹丕は言った。
「私は何もしておりませんわ」
そう言って佳人は、青年に寄り添う。
肩にのせられた重みが、心地良かった。
布越しに、じんわりと広がっていく体温に、『他人』というものに気がつく。
自分が一人であることを知り、他人とつながっていたいと、そう感じる。
その想いは、緩やかに締めつける。
逃げる場所など用意せず、弁解の時間も与えずに、曹丕とこの世界を結びつける糸となる。
青年を<彼>にしない。
曹丕は、夏になったら白い花が咲く池を見つめる。
どんよりとした水面に落ちる影は、先ほどよりも大きい。
「夏が楽しみですわね」
「ああ」
「一株、部屋によろしいでしょうか?」
甄姫が珍しくねだる。
曹丕は飴色の瞳を覗きこむ。
「咲く前から、我が君に見つめてもらえるんですもの。
果報者の睡蓮を手元に置いておきたいと思いません?」
「それだけか?」
「ご自分で詩をお作りになられるのに……。
お気づきになられませんの?」
甄姫はクスクスと笑う。
青年は妻の謎かけに、しばし思考を傾ける。
「私も《lian》になりたいですわ」
麗しい佳人は、答えを明かす。
その口調は、常よりも感情的で、拗ねた子どものような色を宿してた。
「フッ……。
殊勝な言葉だな」
「私はいつでも良き妻ですもの」
「そうであったな」
泥に咲く白い花は、妻に似合いだろう。
スッと咲くその典雅な姿が、良く似ているのだから。
「では、一株贈ろう。
私のたった一人の《lian》に」
草のさざなみも、人に引かれ震えるのも、同じ。
連なる。
それこそが、本質。
二つの漢字の間には『惹く』の想いがある。
蓮という文字は、恋と同じ音を持つ。
丕甄祭U □おまけ丕甄お題
「7 惹かれあう⇔It is attracted.⇔互相被惹」を、お借りしました。ありがとうございます!
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