烏射玉(ぬばたま)の中の月


 コトンッ

 山のように竹簡が積み上げられた書卓を鳴らす。
 陶製の茶器が、気を使うように小さな音を立て、置かれた。
 仕事中であった青年は、顔を上げる。
 そこには己の護衛武将が、ニコニコ顔で立っていた。
「お茶、淹れてきました〜♪」
 はお盆を抱きしめるようにかかえて言う。
「ふん」
 司馬懿は読みかけの竹簡を、書卓の上に置いた。
 その代わりに、茶器に手を伸ばす。
「疲れが取れるお茶だって、評判なんですよ〜」
「今まで、どこにいた?」
「?」
 は幼子のように小首をかしげる。
 その拍子に、夜闇の色をした髪がさらさらと流れた。
 いつもは邪魔にならないように縛られていたそれが、さらさらと背を流れていた。
 それは何かを暗示させるようで、青年は目をそらした。
 やましいことは己には一つもないというのに、直視ができなかったのだ。
「こんな夜遅くに」

 護衛武将は仕事終え、自分たちの宿舎に戻る時間だった。
 司馬懿が軍議で部屋を空けている間に、少女は姿を消していた。
 てっきり帰ったのかと思っていた。
 それが、お茶を運んできたものだから、軽い驚きがあった。
 司馬懿は茶を一口含む。
 かすかな甘みが、爽やかな香りと共に口の中で広がる。

「さっきまで、魚ちゃん先輩と一緒にいました!
 体術を習ってるんです!
 恵ちゃん先輩は、剣術もどう? って言うんですけど。
 そんなにいっぺんにできないから。
 とりあえず、基本の体術を教えてもらってるんです!」
 向上心のある少女はハキハキと答える。
 体術は知っていて損はないので、司馬懿は止めない。
「そうか」
 と小さくつぶやくでとどめる。
「で、きいてくださいよ、司馬懿様!!
 私、何かまずいことしちゃったんでしょうか?」
「常にしているだろうが」
「昨日まで仲良くしてくれた人に、無視されたんです!
 口をきいてくれないどころか、目も合わせてくれないんです」
 ショックですぅ、と少女は言う。
「それは栗色の頭髪の、小柄な男か?
 姓が李と言ったか」
「何で司馬懿様、知ってるんですか?
 って、お仕事だから当然ですよね〜。
 全軍の把握って、大変そうです。
 軍師じゃなくって良かったぁ」
 鈍感な少女はほえほえと言った。
「そういうことだ」
「で、李先輩に無視されたんです!!
 どうすれば良いと思いますか?
 打開策を授けてくださいよぉ。
 食べ物をくれる良い人だったんですぅ〜」
「お前の基準は、食べ物か」
 呆れきった表情で青年は、少女を見る。
「このご時世です!
 物をただで施せるのは、善良な人です!!」
 は断言した。
「見掛け倒しだったのだろう」
「……。
 き、きっと。
 私……、気にさわることしちゃったんだぁ。
 貴重な、ご飯の供給源だったのに」
 お金が何よりも大好きな少女は、この世の終わりのように嘆く。
「それだけの価値しかなかったのか……」
「私にとっては、すごーく価値がありました!
 明日から、おやつどうしよう〜。
 毎日楽しみだったんだけどなぁ」
「用意させよう。
 私の護衛武将が、乞食の真似事をしているとは……。
 全く、恥さらしだ」
 司馬懿は空になった茶器を書卓に置いた。
「本当ですか!!
 エヘッ。
 嬉しいです〜」
 はパッと顔を輝かせる。

 本当に現金な人間だ。
 嫌になるほど、自分中心で、利己的で、打算的で。
 人間の嫌な面ばかり、持っているように見える。

「司馬懿様、今日のお月さま見ましたか?
 とってもキレイなんですよ〜」
 屈託なく笑う。
「回廊から見えたお月さまは、まだちょっと欠けていて。
 空の真ん中で真っ白で、輝いていたんです。
 ちょっぴり、寂しそうに」
 澄んだ声が言う。
「寂しそう?
 決めつけだな」
 司馬懿は否定をする。

 少女は生き抜くために醜い。
 そして、とても綺麗だった。

「院子(中庭)に行きませんか?
 お仕事、ちょっとぐらい遅れても平気ですよ〜」
「指図するのか?」
「だって、全然進んでないじゃないですか。
 夕方から、竹簡が減ってませんよ。
 気分転換したほうが、効率上がると思います!
 行きましょう、司馬懿様」
 は楽しげに誘う。
 的確な指摘に、妥当な提案。
 少女の頭の回転は悪くない。
 馬鹿は嫌いだと言ってはばからない司馬懿だったが、少女の勘の良さといったほうが正しいだろう、その賢しらさにいらだつときがある。
 少女はタイミングが良すぎるのだ。
「休息を軽んじるほど、愚か者ではないつもりだ」
 司馬懿は言った。
 少女は笑顔をさらに輝かせた。


 いらだちの原因を、彼はまだ知らなかった。




 夜が始まったばかりの刻限。
 昼間の熱気を一掃するように、爽やかな風が渡る院子。
 まだ細い月は、西の空に滑り落ちていこうとしていた。
 地上に投げかけられる光は、仄か。
 藍を含んだ夜は、より深い黒に見えた。
 空の色と、月に色の見事な対比に、司馬懿は嘆息した。
「寂しそうだと、思いませんか?」
 傍らに立つぬくもりが尋ねる。
 その声のほうが『寂しそう』だと、青年は思った。
「ただの月だろう」
 司馬懿は答えた。

 寂しい、と思う人間のほうが、ずっと寂しいのだ。
 自然物に思いを託すということは、そういうことだ。
 傍らの少女が、いったい、何に想いをかけているのか。
 わからないのが腹立たしい。

「ちょっとだけ、司馬懿様に似ていると思ったんです」
 はほんのりと笑む。
 今宵の月のように儚げな光をにじませた笑顔。
 司馬懿は息を呑んだ。
 少女は無造作に、肩にかかった黒髪を後ろに流す。
 夜よりも深い色の髪は、ほんの一瞬だけ、さらさらと宙を彩る。
 年相応の匂うようなしぐさだった。
 物憂げな光をたたえた双眸は、全てを内包をした完全色。
 真夜の瞳が、司馬懿は見つめる。
「どういう意味だ?」
 司馬懿は途惑いを隠せず、問うた。

「さあ?
 よくわかりません!
 そう、思っちゃったんだから、しょうがないと思いませんか?
 見た瞬間、そう思ったんです。
 今日のお月さま」
 いつもの明るい声が余韻をぶち壊すように言った。
 一瞬き後の世界にいた少女は、いつもの少女だった。
 貧相で、落ち着きがない、鈍感な、己の護衛武将。
 今宵の月にでも魅入られたのだろうか。
 非現実的すぎるが……。
 司馬懿は安堵すると同時に、妙な脱力感を覚えた。
「だから、司馬懿様と一緒に見たかったんです!」
 はニコニコと告げる。
「私に似ているのか……?」
 司馬懿は天を仰ぐ。

 『寂しそう』に見える。

 この少女には、この月も、自分も、『寂しそう』なのだ。
 共通点など見つかりそうにない。
 自分が、今宵の月ほどに美しい人間だとは思えない。
 月のない夜にうごめく魑魅魍魎のほうが自分には似合いだろう。

「この月は嫌いか?」
 司馬懿は訊いた。
「大好きです!!
 そうじゃなかったら、司馬懿様を連れ出したりしませんよ〜。
 キレイなお月さまです」
 は言った。

 言葉の重みも知らずに。
 質問の真意にも気づかずに。
 正直に、少女は答えた。 

「そうか」
 純真な言葉が、司馬懿をうなずかせた。

 夜の中、真っ白な月が輝いていた。
 それだけのことだった。
 本当に、それだけのことだった。


 だが、意味のある夜となった。

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お題配布元:空が紅に染まるとき