29:白

 異世界『京』は、雪が深い。
 この世界に叩き落されて、かれこれ一月。
 一面の銀世界は、まだ変わらない。
 譲が考えていたよりも、雪が降る。
 『京都』と良く似た景色は、ほんの少しずつ違う。
 SFの平行世界のような場所だった。
 もう一つの選択肢。もう一つの世界。
 『if』の世界だ。
 

 視界を奪うような色に、譲は眼鏡を外した。
 体温と外気温の差で、眼鏡は曇ってしまって役に立たなくなってしまっている。
 服の裾で水滴をぬぐおうと思い、留まる。
 今、譲が着ている服は、手触りが良く、色も美しい……おそらくシルクだ。
 シルクは手入れが面倒な素材だ。
 汚れを落とすのも、一手間かかる服の裾で、眼鏡を拭くわけにはいかない。
 タオルの代わりになるようなものを頼まないといけないな、と譲は苦笑した。
 濡れ縁の堅い床に、眼鏡を置く。
 カタンッと立ったはずの音も、降る雪に吸い込まれてしまったのか、耳に届かなかった。

 譲は、屋根と柱に切り取られた景色を眺める。
 視力は壊滅的に悪いわけではない。
 眼鏡をかけなくても、日常生活に支障はないのだ。
 いや……眼鏡をかける必要がない。
 体の一部になってしまって、譲を識別する重要な小道具であるのに、譲の目は眼鏡を必要としていなかった。
 それでも、譲は眼鏡をかける。
 胸に宿る感情を抑えるためかもしれない。
 兄と区別して欲しいというわがままなのかもしれない。
 譲の身の内にわだかまるコンプレックスが形になったものだと、気づかされる。

 もし

 現実を馬鹿にした発言だ。
 選んだ過去を後悔する言葉だ。
 でも、譲は思う。

 もし、この世界に来なければ

 この言葉の続きはたくさんある。
 危ういバランスの三角を、いつまでも続けていたかもしれない。
 奇妙な居心地の良さを感じながら、譲は誰もが納得する未来まで、時間を浪費したのだろう。
 兄との違いを、ここまで見せつけられることはなかった。
 不在の兄の存在を、譲は感じる。
 思考が悲観に傾いていくのを止められない。
 眼鏡を外して、しまったからだろうか。
 抑えていた気持ちが流れ出す。

 あの人は、あんなに必死になって、自分を探してくれるだろうか?

 兄と一緒になって、探してくれただろうか。
 この答えの先はわからない。
 『もし』の続きは、運命の神さま以外には見えないのだから。
 譲の心は、探してしまう。
 迷子の子どものように、大切なあの人の想いの方向を。
 見えない、人の心を。

 世界が白で染まっていく。
 譲の想いとは裏腹に、それすら覆い隠すように、雪が白に染めていく。
 ちっぽけな自分を包んでも、まだ世界は有り余っている。
 一つだけ年上の、兄と同い年の少女のイメージにダブって見えた。
 
 脇に退けられていた眼鏡に手を伸ばす。
 ガラスの表面に並ぶ丸い水滴を、親指の腹でぬぐう。
 眼鏡をかけると、譲は立ち上がった。
 雪で退屈しているだろう少女の部屋へと向かう。
 自然と人が集う少女の部屋は、今日も誰かしらがいるだろう。
 そこで、譲は提案するつもりだった。
 きっと彼女は、パッと顔を輝かせるだろう。
 そして、譲の案に喜ぶのだ。


「先輩。雪がやんだら、みんなで雪合戦しませんか?」


配布元 [30*WORDS] 遙かなる時空の中でTOPへ戻る