異世界『京』は、雪が深い。
この世界に叩き落されて、かれこれ一月。
一面の銀世界は、まだ変わらない。
譲が考えていたよりも、雪が降る。
『京都』と良く似た景色は、ほんの少しずつ違う。
SFの平行世界のような場所だった。
もう一つの選択肢。もう一つの世界。
『if』の世界だ。
視界を奪うような色に、譲は眼鏡を外した。
体温と外気温の差で、眼鏡は曇ってしまって役に立たなくなってしまっている。
服の裾で水滴をぬぐおうと思い、留まる。
今、譲が着ている服は、手触りが良く、色も美しい……おそらくシルクだ。
シルクは手入れが面倒な素材だ。
汚れを落とすのも、一手間かかる服の裾で、眼鏡を拭くわけにはいかない。
タオルの代わりになるようなものを頼まないといけないな、と譲は苦笑した。
濡れ縁の堅い床に、眼鏡を置く。
カタンッと立ったはずの音も、降る雪に吸い込まれてしまったのか、耳に届かなかった。
譲は、屋根と柱に切り取られた景色を眺める。
視力は壊滅的に悪いわけではない。
眼鏡をかけなくても、日常生活に支障はないのだ。
いや……眼鏡をかける必要がない。
体の一部になってしまって、譲を識別する重要な小道具であるのに、譲の目は眼鏡を必要としていなかった。
それでも、譲は眼鏡をかける。
胸に宿る感情を抑えるためかもしれない。
兄と区別して欲しいというわがままなのかもしれない。
譲の身の内にわだかまるコンプレックスが形になったものだと、気づかされる。
もし
現実を馬鹿にした発言だ。
選んだ過去を後悔する言葉だ。
でも、譲は思う。
もし、この世界に来なければ
この言葉の続きはたくさんある。
危ういバランスの三角を、いつまでも続けていたかもしれない。
奇妙な居心地の良さを感じながら、譲は誰もが納得する未来まで、時間を浪費したのだろう。
兄との違いを、ここまで見せつけられることはなかった。
不在の兄の存在を、譲は感じる。
思考が悲観に傾いていくのを止められない。
眼鏡を外して、しまったからだろうか。
抑えていた気持ちが流れ出す。
あの人は、あんなに必死になって、自分を探してくれるだろうか?
兄と一緒になって、探してくれただろうか。
この答えの先はわからない。
『もし』の続きは、運命の神さま以外には見えないのだから。
譲の心は、探してしまう。
迷子の子どものように、大切なあの人の想いの方向を。
見えない、人の心を。
世界が白で染まっていく。
譲の想いとは裏腹に、それすら覆い隠すように、雪が白に染めていく。
ちっぽけな自分を包んでも、まだ世界は有り余っている。
一つだけ年上の、兄と同い年の少女のイメージにダブって見えた。
脇に退けられていた眼鏡に手を伸ばす。
ガラスの表面に並ぶ丸い水滴を、親指の腹でぬぐう。
眼鏡をかけると、譲は立ち上がった。
雪で退屈しているだろう少女の部屋へと向かう。
自然と人が集う少女の部屋は、今日も誰かしらがいるだろう。
そこで、譲は提案するつもりだった。
きっと彼女は、パッと顔を輝かせるだろう。
そして、譲の案に喜ぶのだ。
「先輩。雪がやんだら、みんなで雪合戦しませんか?」