25.夢

「私は恵まれているわ」

 そう言った緑の瞳は、陸遜を見ていなかった。
 再生を意味する色の瞳は、院子の木蓮をにらみつけていた。
 春は、まだ浅い。
 枝に咲く芙蓉の花の蕾は、固い。
 そよと吹く風が、それよりも淡い色の花弁を宙へと舞い上げる。
 麗らかな季節、なよやかな桃花が乱れ散る。
 少女は、一番に飛び出していくようなおてんば姫だったが、この日は少し違っていた。
 雪のように白い服をまとい、部屋の中で静かにすごしていた。
 傍らに控えていた少年は、少女の言葉の続きを待つ。

「この歳まで生きてきた。
 大きなケガをしたこともないし、病気だってしたことないわ。
 姫と呼ばれ、かしずかれて。
 我がままを言っても、誰も叱らないし。
 たいていのものは手に入ったわ」
 少女は言う。
 その声は、震えていた。
 猛禽に狙われた子兎のように、身を震わせていた。
 細い肩をそっと抱きよせ、「怖いことなどない」と声をかければいいのだろうか。
 そうではない。
 少年は知っていたから、少女の話に耳を傾ける。

「私は幸せよ。
 みんなから愛されたもの。
 想いの分、返してもらったわ。
 父様も……兄様も」
 振り返った緑の瞳が陸遜を見る。
「こんな時代だわ。
 戦で父を失うのも、兄を失うのも……珍しいことじゃなくって。
 だから、だからっ……。
 当たり前のことで、良くあることで。
 わた……しは、恵まれてるの……よ」
 矢のように真っ直ぐ胸に届くその言葉は、強がりでしかない。
 堅く握りしめられた両拳、震える肩、食いしばる口、涙をたたえる瞳。

 泣くまい。

 そう思っているのが伝わる。
 ズキッと少年の胸が痛む。
「姫」
 できるだけの想いをこめて、陸遜は呼ぶ。
 その肩を抱きよせることはできないから、せめてもと。
 自分の言葉で彼女の痛みを包み込めるように、と陸遜は言う。
「本当に恵まれている方は、そうやって何度も確認しませんよ」

 傷ついた、と緑の瞳は雄弁に語る。
 事実は痛みを伴う。
 それを突きつけるのは、ひどく心苦しかった。
 が、陸遜は表情一つ変えずに言葉を続ける。

「泣いても良いんですよ。
 あなたの大切な人がいなくなってしまったんですから」
「できないわ!」
 語気とは裏腹に、尚香は弱々しく首を振った。
 明るい色の髪に表情が隠れる。
 うつむいたまま少女は、言う。
「悲しいのは私だけじゃない。
 私だけじゃないのよ……」

 だから、泣けない。

「その悲しみは、あなただけのものですよ。
 泣いてください」
 願わずにはいられないから、少年は言った。

 自分の心のままに振舞ってほしい。
 気持ちを曲げないでほしい。
 何故なら、たった一つの夢なのだから。
 少女の生き方は、少年が心に描いた夢だった。

「できないわ」
 尚香は断言した。
 強い光を宿した双眸が陸遜を見据える。

 夢から覚める刻がきた。
 緑の瞳は潤みながらも、涙をこぼすことを拒む。
 陸遜の善意を振り払う。
 少年の夢は脆く、砕け散った。


 そして、陸遜は孫尚香に恋をした。


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