この部屋には、香りがない。
曹丕は、ここに来るたびに思う。
部屋に寝起きをする者がいれば、その者の好む香りになっていくものだ。
使われていない部屋は、使われていない香りになる。
この部屋には、香りがない。
「どうなさいましたの?」
艶やかな笑みを浮かべて佳人が問う。
「我が君?」
甘く優しい声が誘う。
月光のように白い手が青年に伸び、その体にふれようとする。
曹丕はその手をつかんだ。
女の飴色の瞳は雄弁だった。
喜びでもなく、驚きでもなく、その瞳を彩った光は落胆。
青年は、春にほころぶ花のような香りがする体を抱き寄せる。
糸の切れた操り人形のように、カクンと力の抜けたそれ。
無抵抗な体をより強く抱きしめる。
やがて、やわやわと背に回される細い腕。
押し当てられた柔らかな胸の重みとあたたかさ。
安堵のような吐息が青年の首筋をくすぐる。
夫婦になったばかりの者たちの抱擁……に見えるだろう。
穏やかな空気の底に、ぎらつく刃。
圧倒的な不穏が、何食わぬ顔で平穏に寄り添う。
まるで、腕の中の女のようにしたたかに。
白いおとがいをつかみ、顔を上げさせる。
「女が装うのは、その表情を気取られないためだと聞いた」
「まあ、面白いことをおっしゃいますのね」
紅がはかれた唇が笑みを形作る。
「そなたは、どうだ?」
「どうと言われましても、意味がわかりませんわ」
女は蒙昧な者たちのように、困ったような、機嫌をとろうとするような口調で言う。
その瞳が裏切っていた。
真っ直ぐと曹丕を見つめる、その意志の強さが言葉に反していた。
「木の葉を隠すとき、最も適している場所を知っているか?」
曹丕は問いを変えた。
「いえ、知りませんわ」
「森だ。
もし森がなければ、木の葉一枚のために森を作る」
「確かに、森の中に木の葉が落ちていても、何の不思議もございませんわね。
ですが、馬鹿げていますわ。
たった一枚の木の葉のために、森を作ってしまうなんて」
甄姫は言った。
「次の戦は、そなたも来るがいい。
久しぶりの大きな戦だ。
そろそろ日常に飽いていた頃合だろう?」
曹丕の言葉に、女の肩がわずかに上下した。
「私の傍で、笛の音を存分に響かせるといい」
「楽しみですわ」
そう言った女の目は生き生きとしていた。
狩をする肉食動物のような瞳の輝き。
殺されてもいい。
これほどまでの強い感情で、熱心に思われるのならば。
殺されてもいい。
自分で選びとった運命だ。
諾々と殺されるのではなく、殺されることを許容する。
死と生は、紙の表と裏。
薄い境界線で、パッとひるがえる。
死を望むことで、生きていることを強く実感した。
希薄になり、うつろになりがちな日常が色を持つ。
「次の戦はいつですの?」
甄姫は嫣然と尋ねる。
「もうすぐだ」
曹丕は言った。
どちらが先であろう。
己が死ぬのと、香りを決めかねているこの部屋の香りが定まるのと。
訪れる度に変わる部屋の香り。
移り気と呼ぶには、やや狂気をはらんだそれ。
長居する気がないと言外にささやく香りたち。
部屋のしつらえは、主の心を写す鏡。
この部屋には、定まった香りがない。
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