薄暗い部屋の中で、竹簡とにらめっこをしていた少年は立ち上がった。
すべてに落胆したような大きなためいきをつく。
書卓の上の竹簡に踊る文字は、変わりがない。
陸遜は軽く首を振って、それから部屋の外へと出た。
飴色の光が待っていた。
甘くて、夢見るような柔らかな光に、自然と頬がゆるむ。
世界は、今日も美しかった。
空は深い青で、雲が薄い紗をかける。
それに対比するように、大地も深く色づいている。
ふれたら散ってしまうような繊細な葉の色は、紅。
錦繍たる景色に負けずに輝くは、孫呉ご自慢の弓腰姫。
娘らしい装いで院子に立てば、それは絵巻物か御伽噺か。
「陸遜、仕事は終わったの?」
楓の葉脈をなでながら、尚香は尋ねた。
葉は、少女の爪を飾る紅が移ったような色をしていた。
「煮詰まってしまったので、休憩です」
陸遜は困ったように言う。
「たまには良いと思うけど……、陸遜は休むの苦手ね」
「姫は得意そうですね」
「誰かさんたちと違って、自分を知っているもの」
緑の双眸が少年を見る。
これからの季節、探し続け、待ち続ける色だった。
春まで待たなくても、それはここにある。
幾ばくかのなぐさめのような、とてつもない救いのような気がした。
「たち?」
「そう、たち。
兄様も休むの下手よ」
尚香は小さく笑った。
少年の胸がチクリと痛んだ。
一つの歳の差は、こんなとき大きい。
陸遜が階段を一段上がると、少女も一段上がる。
決して、追いつくことができない。
「気をつけます」
突拍子もない行動の中にまぎれた労わりに、窒息してしまいそうだった。
「綺麗な花ですね」
陸遜は唐突に話題を変えた。
「これ?」
尚香は髪に飾った花にふれる。
「綺麗だったから、一輪だけもらったのよ。
欲しいならあげるわよ」
少女は、善意で真っ白な花を差し出す。
はしばみ色の瞳は途惑い、尚香の顔と花の間を往復する。
「この花が欲しかったわけでは……」
「それも、そうね。
陸遜は男の子だったわね」
尚香は面白がって言う。
「姫の方が似合いますよ」
「お世辞でも嬉しいわよ」
「それに、私が欲しかったのは……」
陸遜が弁解しようとすると、少女は朗らかに笑った。
綺麗だった。
時がこのまま止まれば良いのに。
そんな栓のないことを考えてしまうほどに。
この一瞬、自分のものだけになっている景色。
「……何でもありません」
手に入らないものに焦がれている。
陸遜は二人の距離を見つけてしまう。
どれだけ近くにいても、どれだけ時を一緒に重ねていっても、埋まらない距離にうつむいた。
「最後まで言いなさいよ。
気になるじゃない!」
尚香は言った。
「では、一生教えません」
陸遜は笑顔を取り繕う。
「どういう意味?」
ほんの少し不機嫌そうな尚香は尋ねる。
「そうしたら、一生気にしてくれるでしょう?」
私のことばかり、考えてくれる。という言葉を飲み込んで、さらに続ける。
彼女が気にし続けるように
「だから、秘密です」
少年は微笑んだ。
「陸遜が嫌になるぐらい、聞き続けるわよ」
「いいですよ」
「しつこく、答えがわかるまで食い下がるんだから」
「いいですよ」
「絶対に、答えを見つけてみせるわ!」
「望むところです」
いつか、彼女は答えに、たどりついてくれるだろうか?
そんな日が来るとは思えなかった。
けれど、心待ちにしている自分がいた。
他愛のない話で、黄昏までの時間が埋まる。
明日の夢も、近い先の悲しみも、すべて夕日が呑み込んでしまうまでの間。
孫呉の姫と軍師は、仲良く答えを探した。
姫が答えにたどりつくまで、明日も、明後日も、それは続くのだった。
お題配布元:[30*WORDS] 真・三國無双TOPへ戻る