17:無

 秋草が風に揺れるこじんまりとした邸宅。
 摂関藤原家が抱える荘園の一つだった。
 都から程よい距離があって、静かな場所だった。
 藤原鷹通がこうして使いとしてやってくるのは、週のうち一日か二日。
 牛車を使えばたいした距離ではないのだが、なんとなく足を向けるのがためらわれた。
 

 通いなれた道を歩み、庭に回りこむ。
 この屋敷の主が、花の中にたたずんでいた。
 少女があまりに儚く見え、鷹通は名を呼んだ。
「神子殿」
 視線が花から移り、少女は笑った。
「鷹通さん。
 いつまで、私は『神子殿』なんですか?」
 高貴な紫に、やわやわとした白を重ねた萩の小袿。
 肩で揺れる髪が短いものの、こちら風の装いだった。
「あかね殿」
 鷹通は呼びなおした。

 この世界を救った龍神の神子は、元の世界に戻ることを望まなかった。
 救ったこの世界にとどまりたいと、願ったのだ。
 龍神は神子の願いを聞き届け、少女はここにいる。

「元気なようですね」
「はい、すっかり」
 あかねは笑う。
 空気に溶けてしまうような、小さな笑みだった。
 鷹通は胸を締めつけれるような想いを感じた。
 務めを果たした後の神子は、小さい身体がより小さく見えた。
 このまま、稀有な少女は消えてしまうのではないか、と不安を覚える。
「藤姫は、元気ですか?」
「文を預かってまいりました」
 鷹通は己の役目を思い出し、塗りの文箱を差し出す。
「元気ですよ。
 私がお会いしたときは、友雅殿もいらしていたようで、にぎやかでした」
 少女の知りたがっている近況を添える。
「想像がつきますね。
 ありがとうございます」
 あかねはクスクスと笑いながら、手を伸ばす。
 足りない距離を鷹通が埋め、白い手にしっかりと文箱を持たせる。
 そっとふれた指先は、微熱を宿していた。

「大丈夫です」
 少女はささやくような声で言った。
 弾かれたように鷹通はあかねを見た。
「大丈夫です」
 くりかえし少女は言った。
「神子殿……」
「ほら、また。
 『神子殿』に戻っちゃってます」
「やはり、元の世界に戻ったほうが良いのではありませんか?」
 鷹通は言った。

 あのとき、この世界は神子を望んだ。
 帰還を嫌った。
 声に出されなかった願いが通じて、神子はこの世界にとどまった。
 誰もが喜んだ。
 ……少女が体調を崩すまで、は。

「この世界にいるのは、迷惑ですか?」
「いえ、そう言うつもりでは」
「そう言ってください。
 そうしたら、帰る気になるかもしれません」
「思ってもみないことは言えません」
「鷹通さんらしいです。
 でも、迷惑だったら、そう言ってくださいね。
 迷惑をかけたくありませんから」
「迷惑だと思ったことはありません」
「ありがとうございます」
 あかねは小さく頭を下げた。

 その姿を見て、やはりと思う。
 彼女は帰るべきだった。
 心からの望みではなかったために、こうして彼女は存在を薄れさせていく。
 明日にも消えてしまいそうだった。

「どうして、あなたはこの世界を選んだのですか?
 故郷に別れを告げるようなものがあったのですか?
 全てを失ってまでも……」
 焦燥に駆られるように鷹通は問う。
「無くしたものはありませんよ。
 すべてを手に入れようとしたのかもしれません」
 あかねは鷹通の手をつかむ。
 健康的ではない熱をはらんだそれに、青年はギクリとする。
「ほら、こんな風に」
「神子殿?」
「だから、鷹通さんは不安にならないでください。
 私が決めたんですから」
 あかねは断言した。
「ですが……。
 そうですね。
 神子殿が決めたのです。
 差し出がましいことをいたしました」
「すぐに良くなりますよ。
 そしたら、心配なんて消えちゃいますよ。
 だから、あまり心配しないでくださいね」
「はい」
 鷹通はうなずいた。
 それに、あかねは満面の笑みを浮かべた。



 それは、龍神の神子でなくなった少女が、京の気に馴染むまでのこと。


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