秋草が風に揺れるこじんまりとした邸宅。
摂関藤原家が抱える荘園の一つだった。
都から程よい距離があって、静かな場所だった。
藤原鷹通がこうして使いとしてやってくるのは、週のうち一日か二日。
牛車を使えばたいした距離ではないのだが、なんとなく足を向けるのがためらわれた。
通いなれた道を歩み、庭に回りこむ。
この屋敷の主が、花の中にたたずんでいた。
少女があまりに儚く見え、鷹通は名を呼んだ。
「神子殿」
視線が花から移り、少女は笑った。
「鷹通さん。
いつまで、私は『神子殿』なんですか?」
高貴な紫に、やわやわとした白を重ねた萩の小袿。
肩で揺れる髪が短いものの、こちら風の装いだった。
「あかね殿」
鷹通は呼びなおした。
この世界を救った龍神の神子は、元の世界に戻ることを望まなかった。
救ったこの世界にとどまりたいと、願ったのだ。
龍神は神子の願いを聞き届け、少女はここにいる。
「元気なようですね」
「はい、すっかり」
あかねは笑う。
空気に溶けてしまうような、小さな笑みだった。
鷹通は胸を締めつけれるような想いを感じた。
務めを果たした後の神子は、小さい身体がより小さく見えた。
このまま、稀有な少女は消えてしまうのではないか、と不安を覚える。
「藤姫は、元気ですか?」
「文を預かってまいりました」
鷹通は己の役目を思い出し、塗りの文箱を差し出す。
「元気ですよ。
私がお会いしたときは、友雅殿もいらしていたようで、にぎやかでした」
少女の知りたがっている近況を添える。
「想像がつきますね。
ありがとうございます」
あかねはクスクスと笑いながら、手を伸ばす。
足りない距離を鷹通が埋め、白い手にしっかりと文箱を持たせる。
そっとふれた指先は、微熱を宿していた。
「大丈夫です」
少女はささやくような声で言った。
弾かれたように鷹通はあかねを見た。
「大丈夫です」
くりかえし少女は言った。
「神子殿……」
「ほら、また。
『神子殿』に戻っちゃってます」
「やはり、元の世界に戻ったほうが良いのではありませんか?」
鷹通は言った。
あのとき、この世界は神子を望んだ。
帰還を嫌った。
声に出されなかった願いが通じて、神子はこの世界にとどまった。
誰もが喜んだ。
……少女が体調を崩すまで、は。
「この世界にいるのは、迷惑ですか?」
「いえ、そう言うつもりでは」
「そう言ってください。
そうしたら、帰る気になるかもしれません」
「思ってもみないことは言えません」
「鷹通さんらしいです。
でも、迷惑だったら、そう言ってくださいね。
迷惑をかけたくありませんから」
「迷惑だと思ったことはありません」
「ありがとうございます」
あかねは小さく頭を下げた。
その姿を見て、やはりと思う。
彼女は帰るべきだった。
心からの望みではなかったために、こうして彼女は存在を薄れさせていく。
明日にも消えてしまいそうだった。
「どうして、あなたはこの世界を選んだのですか?
故郷に別れを告げるようなものがあったのですか?
全てを失ってまでも……」
焦燥に駆られるように鷹通は問う。
「無くしたものはありませんよ。
すべてを手に入れようとしたのかもしれません」
あかねは鷹通の手をつかむ。
健康的ではない熱をはらんだそれに、青年はギクリとする。
「ほら、こんな風に」
「神子殿?」
「だから、鷹通さんは不安にならないでください。
私が決めたんですから」
あかねは断言した。
「ですが……。
そうですね。
神子殿が決めたのです。
差し出がましいことをいたしました」
「すぐに良くなりますよ。
そしたら、心配なんて消えちゃいますよ。
だから、あまり心配しないでくださいね」
「はい」
鷹通はうなずいた。
それに、あかねは満面の笑みを浮かべた。
それは、龍神の神子でなくなった少女が、京の気に馴染むまでのこと。