「集中できませんか?」
優しげな眼差しで問われて、花梨はバツ悪く笑った。
「こういうことが慣れなくて……。
元の世界では、物忌みとかありませんでしたから」
文机の上に載った、紙の端をなぞる。
早くこの京に慣れようと思って、手習いの途中だったのだ。
それがいつの間にかぼんやりとして――。
直前まで書いていた文字は、どれも頼りなく、乱れていた。
嫌だなぁ。
授業中、ぼーっとしていても、こんな風にばれたりはしないのに。
こっちだと、すぐわかっちゃう。
花梨は赤面して、うつむいた。
「お疲れのようですね」
「すみません!」
少女は、ペコッと頭を下げた。
「花梨殿は、こちらに来たばかり。
慣れないことが続けば、誰しも疲れるものです。
ましてや、今日は五行の相性が悪い日です。
龍神の神子であるあなたには、辛いでしょう」
幸鷹は気を使うように、微笑む。
「ごめんなさい」
花梨は言った。
字を教えて欲しいと頼んだのは自分だった。
それが、全く集中できないでいる。
穴があったら入りたい。
恥ずかしくて、このままどこかに消えてしまい。
「今日はずいぶんと進みましたから、充分でしょう。
日もだいぶ傾いてきました」
お役目はもうおしまいですね、と幸鷹は墨の乾いた紙をまとめる。
「もう、そんな時間ですか?」
花梨は慌てて、御簾の向こうを見やる。
御簾越しの光が弱くなったのはわかったけれど、時間を計ることまではできない。
こんなときに、自分がこちらの人間ではないと思い知る。
できて当然ことが、できない。
龍神の神子と祀られても、何もわからず、何もできない。
早く、何でもできるようになりたい。
もっと、強くなりたい。
「ええ、虫の音がしますから」
青年はうなずいた。
その言葉で耳を澄ますと、確かに虫の声が聞こえた。
翅を打ち鳴らして音楽を奏でている。
あちらの世界では、聞き落としてしまうような微かな音。
「本当ですね。
いつまでも聞いていたい感じがします」
少女は唇をほころばせる。
「花梨殿には、珍しいようですね。
そちらの世界では、虫の音を聞くことはないのですか?」
「色々なことに忙しくて。
……気がつかないんです。
こっちに来て良かったことの一つですね」
花梨は笑った。
「あなたは強い人ですね」
幸鷹はそう言うと、立ち上がる。
ふわっと落ち着いた香りが広がった。
花梨が立ち上がろうとすると、目で制される。
優しい瞳に、少女の心臓は飛び跳ねる。
「何かありましたら、またお呼びください」
御簾をくぐる直前に青年は言った。
「はい。
今日はありがとうございます」
「私は当然のことしか、していませんよ。
感謝することはありません」
カシャン
御簾が揺れながら、下りる。
「ありがとうございます、幸鷹さん」
花梨は小さくつぶやいた。
見えなくなった背に向かって。