涙がこぼれると思った。
胸が締めつけられて、それはとてもキレイで。
感傷的になるほど、淡い色をたたえていた。
泣き出すことはできなかった。
見送った。
かつての自分を、去り行くあの人を。
氷がはらりと舞う。
白く、明るい雲が、切片を散らす。
それは、見知った何かに似ているような気がして、孫廂まで出た。
身を切るような冷たい空気に、藤姫はブルッと肩を揺らす。
こうして、端近まで寄ったのは、いつ以来だろうか。
ずいぶんと長いこと、屋敷の奥にこもっていたような気がする。
稚い少女は瞳を伏せて、息を吸い込んだ。
小さな容器いっぱいに空気が取り込まれる。
清浄な気に体全体が喜んでいた。
何重にもまとわりついたしがらみが、ゆるりと解けていく。
次第に増していく歓喜の調べに、目頭が熱くなる。
命を凍らすような世界で、それは金属をとろかすほど熱く感じた。
思い出すのは、あの日のこと。
慕わしく思われるのは、あの人のこと。
外に出るように勧めてくれたのは、彼の方。
深く呼吸をすると良い、と言って微笑んだ。
懐かしくならない記憶が、色鮮やかによみがえる。
それでも、涙はこぼれなかった。
「珍しいね。
あなたが端近にいるなんて、どんな心境の変化だい?
その変化を与えたのが、私ではないのが残念だよ」
深く艶のある声が、言った。
揺れる視界の中、背の高い公達がいた。
白銀の世界で、それだけが色のように莟紅梅の装い。
一足早く、春が来たようであった。
「友雅殿」
声にとがめるような響きが宿るのは、必然。
「元気そうで良かったよ」
友雅は雪の払い、階に腰掛ける。
「何のご用ですの?」
八葉としての勤めを果たした後は、こちらを訪れることも稀な男性に尋ねる。
「雪見舞いに。
天からの贈り物に、あなたが塞ぎこんでいないかと心配したのだが、取り越し苦労だったようだ」
重たい腰を上げてきたんだがね、と友雅は唇をほころばせる。
「友雅殿でも、心配なされるようなほどでしたの?」
少女は己の頬にふれる。
冴え冴えとした空気と同様に、ひんやりとしていた。
指先から熱が緩やかに移っていく。
「酷い言われようだ。
私はそんなに薄情な男かな?」
「違いますの?」
藤姫はかすかに笑む。
「きついお言葉だ」
言葉は責めているようなのに、少しもそんな気配がなかった。
こうして言葉を交わすのは、いつ以来だろうか。
遠い昔のような気がする。
雪ではなく、桜の花びらがはらりと舞っていた。
公達は階に腰をかけて、孫廂まで出た藤姫をからかった。
季節は移ろったけれども、変わらないように思えて――。
聡い少女は気がついた。
「扇はどうなされましたの?」
「季節外れだよ」
友雅は言った。
「気にせずに、お持ちになられていた、と記憶にありますわ」
多少季節はずれだとしても、目の前の男性が持つと様になっていた。
それを知ってだろうか。
流行を追う他の貴族と違って、友雅は自分らしくあった。
「他人のことはよく気がつくのに、自分のことは気がつかないのだね」
友雅は謎かけをするように呟いた。
「何のことですの?」
「ここまで意地を張られると、なにやら薄ら寒いね」
「?」
「ずいぶんと親しくしていたつもりだけれど、私たちの仲はその程度のものだったのかい?」
一つの像が結ばれる。
あの日、あの時以来。
「神子殿が元の世界に帰って以来、心を隠してばかりいる。
感情をどこに置いてきてしまったんだい?
泣きも笑いも、怒りもしない。
苦しいときは苦しいと言っても良いんだよ」
「……。
隠しているわけではありませんわ。
泣きたかったのかもしれません。
でも、泣けないんです」
藤姫は薄く笑った。
我慢したわけではない。
涙がこぼれるかと思った。
でも、こぼれなかっただけ。
「そんなあなたを神子殿はお望みではないよ」
友雅は言った。
「涙の流し方を忘れてしまったようです」