15:寒

 涙がこぼれると思った。
 胸が締めつけられて、それはとてもキレイで。
 感傷的になるほど、淡い色をたたえていた。

 泣き出すことはできなかった。
 見送った。
 かつての自分を、去り行くあの人を。


 氷がはらりと舞う。
 白く、明るい雲が、切片を散らす。
 それは、見知った何かに似ているような気がして、孫廂まで出た。
 身を切るような冷たい空気に、藤姫はブルッと肩を揺らす。

 こうして、端近まで寄ったのは、いつ以来だろうか。
 ずいぶんと長いこと、屋敷の奥にこもっていたような気がする。

 稚い少女は瞳を伏せて、息を吸い込んだ。
 小さな容器いっぱいに空気が取り込まれる。
 清浄な気に体全体が喜んでいた。
 何重にもまとわりついたしがらみが、ゆるりと解けていく。
 次第に増していく歓喜の調べに、目頭が熱くなる。
 命を凍らすような世界で、それは金属をとろかすほど熱く感じた。
 
 思い出すのは、あの日のこと。
 慕わしく思われるのは、あの人のこと。
 外に出るように勧めてくれたのは、彼の方。
 深く呼吸をすると良い、と言って微笑んだ。
 懐かしくならない記憶が、色鮮やかによみがえる。

 それでも、涙はこぼれなかった。


「珍しいね。
 あなたが端近にいるなんて、どんな心境の変化だい?
 その変化を与えたのが、私ではないのが残念だよ」
 深く艶のある声が、言った。
 揺れる視界の中、背の高い公達がいた。
 白銀の世界で、それだけが色のように莟紅梅の装い。
 一足早く、春が来たようであった。
「友雅殿」
 声にとがめるような響きが宿るのは、必然。
「元気そうで良かったよ」
 友雅は雪の払い、階に腰掛ける。
「何のご用ですの?」
 八葉としての勤めを果たした後は、こちらを訪れることも稀な男性に尋ねる。
「雪見舞いに。
 天からの贈り物に、あなたが塞ぎこんでいないかと心配したのだが、取り越し苦労だったようだ」
 重たい腰を上げてきたんだがね、と友雅は唇をほころばせる。
「友雅殿でも、心配なされるようなほどでしたの?」
 少女は己の頬にふれる。
 冴え冴えとした空気と同様に、ひんやりとしていた。
 指先から熱が緩やかに移っていく。
「酷い言われようだ。
 私はそんなに薄情な男かな?」
「違いますの?」
 藤姫はかすかに笑む。
「きついお言葉だ」
 言葉は責めているようなのに、少しもそんな気配がなかった。

 こうして言葉を交わすのは、いつ以来だろうか。
 遠い昔のような気がする。
 雪ではなく、桜の花びらがはらりと舞っていた。
 公達は階に腰をかけて、孫廂まで出た藤姫をからかった。
 季節は移ろったけれども、変わらないように思えて――。
 聡い少女は気がついた。

「扇はどうなされましたの?」
「季節外れだよ」
 友雅は言った。
「気にせずに、お持ちになられていた、と記憶にありますわ」
 多少季節はずれだとしても、目の前の男性が持つと様になっていた。
 それを知ってだろうか。
 流行を追う他の貴族と違って、友雅は自分らしくあった。
「他人のことはよく気がつくのに、自分のことは気がつかないのだね」
 友雅は謎かけをするように呟いた。
「何のことですの?」
「ここまで意地を張られると、なにやら薄ら寒いね」
「?」
「ずいぶんと親しくしていたつもりだけれど、私たちの仲はその程度のものだったのかい?」

 一つの像が結ばれる。
 あの日、あの時以来。

「神子殿が元の世界に帰って以来、心を隠してばかりいる。
 感情をどこに置いてきてしまったんだい?
 泣きも笑いも、怒りもしない。
 苦しいときは苦しいと言っても良いんだよ」
「……。
 隠しているわけではありませんわ。
 泣きたかったのかもしれません。
 でも、泣けないんです」
 藤姫は薄く笑った。

 我慢したわけではない。
 涙がこぼれるかと思った。
 でも、こぼれなかっただけ。

「そんなあなたを神子殿はお望みではないよ」
 友雅は言った。



「涙の流し方を忘れてしまったようです」


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