14.戯

 イライラしながら、孫尚香は院子を突っ切る。
 こぼれるように咲く花も、香りを運ぶ風も、全部無視してお気に入りの木陰を目指す。
 そこには、先客がいた。
 涼しげな木陰の下、書を読みふける少年がいた。

「陸遜」
 苛立ちながら、尚香は少年の名を呟いた。
 少年は顔を上げ、少女の姿を認めると、フッと笑む。
 それが本当に嬉しそうだったから、少女の機嫌はさらに悪くなる。
「ずいぶんと、暇そうね」
 尚香はつっけんどんな口調で言った。
「今は、暇ですね」
 陸遜はにこやかに言った。
 おそらく読み途中であった竹簡を端からまとめていく。
 カランカランと乾いた音がして、気にさわった。
「そんなに暇なら、鍛錬でもしたらどう?
 孫呉を担う将兵の一人なんでしょ!」
「それも良いですね。
 姫がお相手してくださるんですか?」
 陸遜は言った。

 歳も背格好も近い二人は、良き鍛錬の相手だった。
 圏はもともと舞の道具。
 双剣もまた、円を描くような筋を持つ。
 敵陣深く切り込み、混乱を誘い、接近戦を得意とする。
 身軽さが売りで、剣戟を流すことはできても、受けることはできない。
 鍛錬を欠かすことのできない得物でもあった。

「冗談でしょ。
 あなたは本気にならないじゃない」
 ほんの数ヶ月前まで、気がつかなかった。
 技量にこれほど、差がついていたなんて。
 綺麗な笑顔の下に隠されていたのだ。
「まだ、怒っているのですか?」
「もう怒ってないわ」
「では、何があったのですか?」
 陸遜は尋ねる。
「あなたに追いつけないことに、イラついているだけよ」
 尚香は言った。

 性差は、年齢共に比例した。
 どんなに鍛錬しても、追いつけない。
 女は子を産み、育てるために体ができている。
 家を守るだけが女の仕事ではない、と言い張っても、体つきを変えることはできない。
 男は戦うために、骨が太く、筋肉がつきやすい。
 小柄で細身に見える目の前の少年も、尚香よりも力があった。
 一つ下の少年は、まだ未来がある。
 もっと、差がつくのだ。

「戦場で武勲を挙げることだけが、人生ではありませんよ。
 迷い多き君主に、諫言する。
 あるいは、安らぎの場を用意する。
 そんなことも、姫にしかできないことですよ」
 陸遜は微かに笑みを浮かべ言った。
「戦場で兄様の役に立ちたいの」
「でしたら、戯下でも良いと思うのですが」
「どうして知ってるのよ!」
「ああ、やっぱり。
 それが理由だったんですね」
 陸遜の言葉に、引っ掛けられたことに気がつく。

「納得できないわ!
 陸遜が前線で、私が本陣近くなんて」
「決定です。
 あきらめてください」
 陸遜はやたら、にこにこと告げる。
 自信のあるとき、少年の笑顔が二割増しになることを少女は知っていた。
「ねー、陸遜。
 兄様に何か吹き込んだりしなかった?」
 尚香は優しく微笑んだ。
「迷い多き君主に献言するのも、臣下の仕事ですよ」
「言語遊戯って嫌いなのよね」
「手厳しいですね、姫」
 はしばみ色の瞳は上機嫌で言う。
「おかげさまで」
 尚香はためいきと共に言った。

 覇気がなさそうに、へらへらと笑っている少年は、人一倍意志が強い。
 こうと決めたら、意地でも守り通そうとする。
 戦場に出られることには変わりがない。
 尚香は、折れることにした。

「これがあなたの遠謀だとしても、仕方がないわね」
「窮余の一策ぐらいですよ」
 陸遜は気弱に微笑んだ。
 手際よく罠を仕掛けた少年があまりにも頼りげなく言うものだから、尚香は失笑した。
 ちぐはぐ過ぎる印象は、いつの日か統合されるのだろうか。
「そういうことにしておいてあげるわ」
 機嫌良く尚香は言った。


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