深く、深く、沈んでいく。
どこまでも落ちていく。
ゆっくり、ゆっくり。
確かに、確かに。
沈んでいく、落ちていく。
記憶の淵、過去の中。
面影を探して。
くりかえされる春の中、彼はいつも微笑んでいる。
知らない世界に来た途惑いを隠して。
「先輩。
ケーキを焼いてみたんです。
一口、どうですか?」
一つ年下の幼なじみは、微笑みながら、盆を見せる。
漆塗りの盆の上には、果物がふんだんにのったケーキがあった。
「ケーキ!?
食べる!」
剣の型を懸命になぞっていた少女は、剣を放り出しかねない勢いで言う。
廂まで走りより、感激する。
「うわぁ、すごい!
こんなのもの作れるんだ。
譲くんって、何でもできるんだね」
望美は無邪気に言った。
「そんなに難しくありませんよ。
材料さえ、そろえば」
「すごいよ!
材料があっても、私には作れないもん」
少女は手早くスニーカーを脱ぎ捨てると、廂に上がる。
「今度、作り方教えて」
「先輩が作るんですか……?
……そうですね……。
蒸しケーキだったら……いや、でも」
譲は考え込むように、遠くをみる。
「どうしたの、譲くん?」
望美は小首をかしげる。
「…………。
料理に慣れていない人には、火の加減が難しいから」
「あ、そっか。
かまどだもんね。
電子レンジとかじゃないから、難しいよね。
じゃあ、帰ったら教えてくれる?」
「いいですよ。
帰る理由が一つ増えましたね」
「あ、うん。
そうだね」
「春日先輩?」
「な、何でもないよ!
ケーキ美味しそうだね」
少女は盆に手を伸ばそうとする。
が、ひょいと盆が遠ざかる。
「?」
「先輩、手を洗ってこないと駄目ですよ」
譲は微笑んだ。
「はーい」
くりかえされる春の中。
運命を変えようと抗うから、少しずつ違う過去。
新しい記憶と、懐かしい未来。
「譲くん、ケーキ美味しいね」
「喜んでもらえると、作った甲斐がありますね。
明日は何を作ろうか、考える楽しみができます」
「……。
譲くんは、明日が楽しみなの?」
「ええ、先輩の喜ぶ顔が見たいですから」
「そうなんだ」
「先輩は、違うんですか?」
「今が、こんなに幸せだからかな。
明日よりも、今日が楽しいから、だから。
それに、ケーキもあるし」
望美は髪を耳にかける。
「そんなに気に入ったんでしたら、明日も作りますよ」
譲は失笑して、それから優しく言った。
「ホント?
楽しみだな」
少女は笑みを作った。
深く、深く、沈んでいく。
どこまでも落ちていく。
底が見えない水の中に。
ゆっくりと、確かに。
時空という流れの中に。
記憶の底に……。
懐かしい人と新しい未来を見るために。