04:海

「ああ、夏が終わっちゃう」
 不満たらたらに、窓辺にいた豆ダヌキもとい、少女は言った。
 この部屋の主であり、彼女の自称保護者はそれを聞き流していた。
「何にもしないうちに、夏が終わるんだ」
 少女は、盛大にためいきをつく。
 芽衣の言葉に、違和感を感じたキールは手を止める。

「何もしないうちに?」
 青年は鸚鵡返しにつぶやく。
 最年少の緋色の魔導士の明晰な頭脳に駆け巡った、夏の騒動の数々。
「そう、何にもなかったじゃん」
 芽衣は振り返った。
 勢いが良かったものだから、短すぎる髪と制服の襟が揺れた。
 彼女が固執するモノに、キールはかすかに眉をひそめた。
 異世界からの来訪者は、この世界に馴染むはずがなかった。

「あれだけ、騒ぎを起こしたくせに、まだ騒ぎを起こすつもりか?
 この書類を見ろ!」
 青年は処理中の書類を叩く。
「キールってば、こんなに仕事をためこんだの?
 人には宿題はきちんとやれって、お説教するくせに」
「誰のせいだと思ってる?
 これは全部、お前が起こした騒動の報告書だ」
 キールは芽衣の言葉をさえぎって、言った。
「……全部。
 すごい量だね」
 まるで他人事のように、少女は感心する。
「これ以上、俺の仕事を増やすな。
 研究がさっぱり進まない!」
 キールの語気の荒さに、さすがの芽衣も肩をすくめる。
「ごめん、キール。
 そんなつもりはなかったんだけど……。
 ついね」
 芽衣は困ったように笑う。
「反省しているなら、態度で示せ」
「トラブルは起こさないように……努力します」
「しばらく、院の外に出るなよ」
 キールは大きく息を吐き出し、譲歩した。

 少女はどこでも騒動を起こす。
 たとえ、それが院の外でも、中であっても。
 目の届く場所であれば、騒動が大きくなる前に対処ができる。
 青年は、どこまでも少女の保護者であった。

「えー。
 じゃあ、海に行けないんだ」
「海?」
「そう!
 夏なのに海に行ってなかったから、海に行きたかったの!」
 芽衣は宣言するように、元気よく言った。
「夏だと海に行くのか?」
「夏なのに、海に行かないの?」
 疑問符が浮かんだ瞳同士が見つめあう。
「もしかして、この世界。
 海がないの?」
 少女は質問を重ねる。
「いや、あるにはあるが……。
 ここからはかなり距離がある」
 キールは答えた。
 クライン王国は内陸の国。
 海に行こうと思っても、簡単には行けない。
 旅行というよりも「旅」に近い。
 ただでさえ、キナ臭い国際情勢だ。
 歩く発火装置の少女を一人歩きさせるわけにはいかなかった。
「遠いの?」
「一生に一度、と言うところだな」
「へぇー。
 アタシの住んでたところは、夏になったらみんな海に行ってたんだけどなあ」
「海に行って、何をするんだ?」
「え?
 泳ぐに決まってるじゃん」
「湖や川でも泳げると思うぞ」
「……うーん、そうだけどさ。
 海には海にしかない良さってもんが」
 芽衣は床に視線を落とす。
「キールには、わからないかもしれないけど」
 決まり悪そうに、少女は言った。

「そうだな。
 俺には海の良さはわからないが、もう一つの海の良さならわかるな」
 キールは言った。
「もう一つの海?」
 芽衣は小首をかしげる。
「夜になったら、教えてやる」
「今じゃダメなの?」
「意味がないからな」


               ◇◆◇◆◇


 院の中庭。
 日が落ちて間もない時間。
 門限にはまだ余裕があるのだが、人気はなかった。
 キールと芽衣がワンセットな姿を見て、近づいてくるほど肝の据わった人間は少ない。

「で、もう一つの海って?」
 無邪気に芽衣は訊く。
 院の中とはいえ、外に出れたことが嬉しいのだろう。
 少女は上機嫌だった。
「上にあるだろう?」
 不機嫌に見られがちな表情で、青年は言った。
「上?」
 芽衣は空を仰ぐ。
「これも『海』って呼ばれていたらしい。
 昔の」

 お前がいたかもしれない時間の、呼び方だ。
 音にしてはいけない言葉を、キールは飲み込んだ。

「へー。
 あ、聞いたことある!
 星の海でしょう?
 こっちにも、そんな呼び方あったんだ。
 意外に似ているんだね。
 こっちとあっち」
 芽衣はニコニコ言った。
「そうだな」
 キールは空を見上げた。
 大きな月と幾万の星々が輝いていた。
 時間と空間を隔てられた二人が、見上げているは何ともいえない気分になる。
 苦いような、重苦しいような、それ以上に嬉しいと感じる。
 判別のできない感情は、キールにためいきをつかせた。
「キール、ありがとう。
 海を教えてくれて」
 少女は屈託なく言った。

 過去の己の傲慢さに、反吐が出る。
 礼を言われるようなことは一つもない。
 キールは最低限の、果たさなければならないことをしているだけだった。

「勝手に遠くに行かれたら、困るからな」
 ごまかすように、キールは告げた。
「それでも、嬉しいよ!」
「……そうか」
 キールはうなずいた。


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