孫呉の弓腰姫は、おてんば姫。
綺麗な団扇のかわりに、圏を持つ。
少年のような格好で、走り回る。
供は決まって、一つ下の陸家の当主。
同じ年頃のお淑やかな乙女たちとは、話が合わない。と言って、少年を従える。
遠乗りに出かけたり、手合わせしたりと、ひとところに落ち着かない。
花のようなかんばせには不釣合いだったが、誰も口うるさく言わない。
それが自然で、当然だったからだ。
孫呉の若き主は、とにかく忙しかった。
格式ばった重鎮たちに、気性の激しい新参の臣下。
二つの意見をどちらも取り入れ、上手くまとめていくのは、まだ若い孫権にとって、素晴らしく大変な作業だった。
取り留めのない侍女たちの立ち話を聞いたのは、偶然以外の何ものでもなかった。
孫権が休息を取ろうと部屋の外へ出たのも、侍女たちが他愛のない噂話をさえずっていたのも、全てが偶然だった。
だから双方、自分の目と耳を疑い、事実を確認した瞬間、気まずい沈黙がその場に落ちたのだ。
「その話は本当なのか?」
孫権の問いかけに、侍女たちはその場で平伏する。
「答えよ!」
恫喝に限りなく近い声に、年若い侍女が顔を上げる。
「あくまで、噂でございます。
ただ、最近、姫が女性らしくなった。
事実はそれだけですわ」
おどおどと侍女は答える。
「すぐに陸遜を呼べ!」
孫権は命令した。
◇◆◇◆◇
「お呼びと伺い、参上いたしました」
孫呉の主の私室で、陸遜は頭をたれる。
軍議で顔を合わせたばかりだというのに。
急を要するような案件は議題にはなかったが、何か相談事でもあるのだろうか。
年若い将は、つらつらとそんなことを考えていた。
「陸遜、話がある」
孫権は重々しく言う。
気迫あふれたその姿は、一国を背負うに値する。
平時の穏やかで、実直な姿勢よりも、こちらの方が尚武の国にふさわしい。
「はい」
重大な決断でも下すのだろうか。
いつも、このようにしていれば、臣下の嘲笑の的にならずにすむのに。
少年は思った。
「私は、お前を頼りに思っている。
やがては孫呉の柱になるだろう」
「もったいないお言葉です」
陸遜は柔和な笑みを浮かべる。
「だが、これとそれとは話が別だ!」
孫権は力任せに書卓を叩く。
痛々しい音が室内に響く。
「……し、尚香と、……恋人同士……だと!
聞いた。
申し開きがあるのなら、聞こう」
碧眼は、怒りで爛々と輝いていた。
孫家は怒っているほうが魅力的なのだと、陸遜は再確認する。
燃えるような緑の瞳を思い出し、少年は小さく微笑む。
「素敵な噂話ですね。
まだ、恋人同士ではありません」
陸遜はおっとりと言う。
「そうか、恋人同士ではないんだな。
……まだ。
どういう意味だ?」
孫権は安堵しかけるが、言い回しに引っかかったようだ。
「いずれは、そうなりたいと思っています」
陸遜と尚香の間には、何もない。
だが、少年は「好き」だと伝えたら、少女もまた「好き」だと返した。
どこまでも友情に近い感情だが、変わらないとも限らない。
これは好機だと、陸遜はほくそ笑む。
「ならん!」
「姫のお気持ち一つです」
少年は静かに罠を用意する。
「私が許さん!
尚香は、まだまだ子どもだ。
男女の区別がついていないのだ。
何故、相手が尚香なのだ?
他にも、美しい女性なら星の数ほどいるだろう」
孫権は眉間にしわを寄せる。
「それは異なことを。
私は姫ほど、美しく、生き生きとした女性を知りません。
内面から輝くその美しさに、心惹かれるなと言うほうがおかしいのです。
花を見て、その美しさを賞賛するのは罪でないでしょう。
それと同じ気持ちなのです。
ともあれ、私は姫に無理強いをするつもりはありません」
陸遜は事実を口にする。
「今までのように、過ごすことを禁じる。
二人きりになって、弾みでもつかれたら、厄介だからな」
苦虫をつぶしたような表情で、孫権は言った。
「二人きりでなければよろしいのですか?」
「いきなり、会うなと命じたら、あのおてんばは制止を振り切るだろう」
妹に理解ある兄は、ためいき混じりに言った。
「ご温情に感謝いたします」
陸遜は丁寧に頭を下げた。
穏やかな日差しが差し込む室内。
「兄様ったら、ヒドイのよ!
もう、頭ごなしに言うの。
陸遜は危険だから、二人っきりになるなー。とか、全然わかんないわよ」
野を駆け回ることが減った弓腰姫は、ふくれっつらで言う。
「孫権様のご命令とあれば、仕方がありませんよ。
少しばかり、窮屈ですけどね」
陸遜は苦笑して、入り口の方向を見やる。
さりげなく侍女が控えているのがわかった。
「前は言わなかったクセに。
一体、どういう風の吹き回しなのかしら?
もっと女らしくしろとか、鍛錬を減らせとか」
柳眉をひそめながら、尚香は言う。
「不自由そうですね」
「女らしく、って言われるのは、兄様からだけじゃないし、今に始まったことじゃないけど。
ここのところ、ずっと陸遜の悪口ばかり聞かされてるわ。
それがすっごく嫌なのよ」
「きっと半分ぐらいは、事実だと思いますよ」
孫権は、あることないことを話す性質の人間ではない。
精々、事実をやや誇張して話す程度であろう。
「それにしたって気持ちのいいもんじゃないわ」
「姫が私の良いところをご存知なら、それでかまいません」
少年は柔らかに微笑む。
「陸遜は、大人ね。
兄様にも、陸遜の良いところをわかって欲しいわ」
尚香はためいきをついた。
以前にはない仕草に、陸遜は笑みを深くする。
「ありがとうございます。
お気持ちだけで充分です。
私は、私のせいで姫と殿が言い争うほうが嫌です」
それぐらいなら、悪く言われるほうがマシです、と少年は言った。
「陸遜がそう言うなら、ちょっとは控えるわ」
尚香は言った。
兄だけあって、孫権は妹をよく知っている。
尚香の意識には男女の区別がなく、無邪気に遊びに誘う。
恋の方面では、一つ年上の少女は「子ども」だった。
急激な変化が起こらなければ、尚香は陸遜を意識することはないだろう。
間近にいるのが「男」だということを、一生気がつかずに終わったかもしれない。
計算どおりに事が進み、陸遜は微笑むのだった。