戦乱の世だというのに、何不自由のない子ども時代だった。
大抵のものは、望めば手に入った。
あれが欲しいと言う必要はなかった。
欲しいものに目を留めれば、それで自分のものになった。
稀に、手に入らぬものもあったが、それすらも努力すれば手に入った。
――いくつかのものを除き。
それは、まるで恰幅の絵のように……、素晴らしい光景だった。
天帝が描いた絵だと言われて、首肯する。
そんな麗しく、調和した絵だった。
堂々として覇気にあふれた男と、内面から光り輝く美女。
優しげな顔立ちで、才気あふれた幼子。
何て美しい光景だろうか。
曹丕は、苦しげに息を吐き出した。
春の陽だまりの中、憩う家族の姿は麗しかった。
これ以上ないくらいに幸福で、完璧な絵だった。
そう、そこに自分自身はいなかったけれど。
あどけない顔をしている少年は、手の甲で目の端をぬぐった。
調和から逃げるように、きびすを返す。
まだ、孫子が読みかけだった。
次の巻に、今日中に入りたい。
だから、勉強をするために部屋に戻るのだ。
兵法をよく覚えれば、戦場で父の役に立つこともあるだろう。
武芸を磨かば、兄の助けとなるだろう。
曹家の次男として、自分は学ばなければいけないことが多いのだ。
だから――。
数え十にも満たない子どもは早足で向かう。
「兄上」
父によく似たすぐ下の弟とすれ違う。
曹丕は、ギクリとする。
自分の顔は、いつもと同じだろうか。
羨んでいたり、悔しいという想いが顔に浮かんでいないだろうか。
「兄上は、これからどこへ行くんだ?
せっかく父上が帰ってきたのに」
曹彰が言う。
「もう、ご挨拶はすませた。
勉学の途中だったので、戻るところだ」
曹丕は言った。
自分と同じ色の双眸は、異物を見るような光を持っていた。
理解しがたいものを見るような、差別の前の区別のような視線に、曹丕は口を引き結ぶ。
同胞が向けた瞳から、曹丕は顔をそむける。
「武ばかりのお前と違うのだ」
吐き捨てるように言うと、曹丕は駆け出した。
具体的に、どこかを目指していたわけではなかった。
とにかく、ここにいてはいけないと思ったから、走っただけなのだ。
美しい調和に、自分は相応しくない。
帰る場所は、間違いなくあの場所だというのに、そこは曹丕を排除しようとしている。
息切れ、よく頭が回らない中、胸を占めるのは喪失感だった。
曹丕は孤独だった。
気がついたときには、一人だったのだ。
誰かが曹丕を褒める。
誰かが曹丕を称える。
流石は、あの曹操の子どもだ、と。
末頼もしい、と。
努力せずに手に入れたものが、努力の末に手に入れたものが、言う。
曹丕は何の苦労もせずに、すべてを手に入れると――!!
ふと、少年は顔を上げた。
入り組んだ回廊の先、たどりついたのは異母兄の部屋の前だった。
気づかないうちに、ここまで来ていた。
そのことに衝撃を覚え、曹丕は来た道を引き返そうとした。
「どうしたんだ?」
「……兄上」
かけられた声に、曹丕はぎこちなく立ち止まり、振り返った。
少年は、兄を凝視する。
ただ一人の兄だった。
曹丕にとって、曹昂は兄上と呼べる、ただ一人の人物だった。
その事実が、少年の固い殻にひびを入れる。
何もかもぶちまけてしまいたいという欲求が湧きあがる。
が、曹丕はこぶしを握り締める。
「散策の途中です」
少年は告げた。
「そうか」
曹昂はうなずいた。
それだけだった。
少年の瞳に薄っすらと涙が浮かんだ。
「散策の後は、どうするんだ?」
曹昂は、穏やかに言葉を続ける。
先ほどの言葉は嘘だと、すぐさまわかっただろう。
だが……。
「部屋に戻って、孫子の続きを読もうと思っています」
曹丕は晴れ晴れとした気分で言い切った。
孤独であることに、変わりない。
が、己を強く揺らし続ける自己否定はかすんだ。
まだ、頑張れる。
「父の子として、恥じないように、お互い頑張らねばならないな。
では、私もよりいっそうの努力をしよう。
そなたのように、な」
兄は言った。
「私も、より精進いたします」
弟も言った。
曹丕であっても、手に入れられないものがあった。
いくら努力しても、手に入れることはできなかった。
けれども、幼い曹丕は努力し続けたのだった。
それに、努力するだけの価値があったゆえに――。