穏やかな昼下がり。
柔らかくなってきた季節が、部屋に光を届ける。
少女は姉の部屋の長椅子に寝転がりながら、詩経を開いていた。
「お姉ちゃん、恋ってどんなもの?」
竹簡をながめていた少女は尋ねた。
「その人で世界がいっぱいになってしまうものよ」
姉は刺繍をする手を止めて、優しく微笑んだ。
「とても素敵なものよ」
そう言った姉は、まるで夢を見ているようだった。
初めて見る表情に、妹である少女は途惑った。
「なんだか、ちょっと怖い」
小喬は自然な感想をもらした。
今の穏やかな時間が失われてしまう。
幸せが逃げていってしまうような気がした。
「そう?
それに、恋は気がつけば始まっているものよ。
止められないの」
大喬は笑みを深くした。
「お姉ちゃんは恋しているの?」
少女は姉を見つめた。
「ないしょ」
そう言うと、大喬は刺繍を再開した。
少女は竹簡に視線を戻した。
そこには恋を詠う文章が並んでいた。
いつか自分も恋をするのだろうか。
あまり楽しそうな感じはしない。
だから、恋をしたくないと思った。
あの日、姉の言ったことは真実だった。
望んでもいなかったのに、小喬は恋に落ちた。
まるで物語のように、颯爽と現れた青年に。
世界は一変した。
目が合うだけで心臓が高鳴る。
名前を呼ばれただけで、息の仕方がわからなくなる。
楽しいことばかりではない。
それなのに、嫌なことじゃない。
一緒にいられるだけで、幸せだった。
他の誰とも感じたことのない類のものだった。
種類が違った。
確かに『素敵なもの』だった。
今なら姉の気持ちがわかる。
院子の路亭に座りながら、少女はぼんやりと花を見る。
初めて目にする花が咲いていた。
生まれ育った場所とは違う草花は、かすかに心を和ませる。
「考え事をしているのか?」
世界を変えた人が竹簡を抱えてやってきた。
落ち着いた声に、心臓がでたらめな音を奏で始める。
「お庭を見ていただけ」
少女はゆるく首を横に振った。
「困ったことはないか?
足りない物は?」
周瑜は心配そうに尋ねた。
「大丈夫だよ」
「それならいいが。
急に連れてきてしまったから、不足があったら言って欲しい。
たとえ、それがささやかなものであっても」
誠実な青年は言った。
「あのね。
こうしているだけでも幸せな気分になるの。
周瑜様があたしに教えてくれたんだよ」
少女は青年を見上げる。
自分とは異なる色の瞳が真っ直ぐに見つめ返してくれた。
「それなら、私と一緒だ。
共にいるだけで幸せな気分になることを教えてくれた。
隣に座ってもいいだろうか?」
周瑜は言った。
小喬は座りやすいように少しずれる。
芳しい香りが隣で揺れた。
墨と香木の香りだ。
「周瑜様があたしに『恋』を教えてくれたんだよ」
少女は笑った。
青年は眩しそうに目を細める。
「光栄だ。
私も小喬に恋している」
周瑜の言葉に、小喬の心臓は跳ねる。
「両想いだね。
嬉しい!」
心からの想いを伝えると、笑顔が返ってきた。
ますます幸せな気分になった。
世界は変わってしまったけれども、新しい世界も楽しいことがありそうだ。
無垢な少女は思った。