和らぐ日差しに、人々はそっと息をつく。
鍋で炒られるような気分になる孫呉の夏も終わろうとしていた。
朝夕に冷え込み、ようやく秋の気配がたつ。
待ち望んだような、何か物足りないような季節を迎える。
空を見上げれば、支度がすっかりすんだようで、小魚のような雲が並んでいる。
吹く風の音色さえも変わってきたようだ。
回廊を歩く小喬の足取りも、実に秋らしかった。
普段の少女は、走るというより、跳ねるという風情。
子兎のように落ち着きのないさまを、姉の大喬と頻繁に比べられ、ごくわずかな例外を除き、盛大にためいきをつかれる。
そんな少女が今日に限っては、まるで生まれたときからの淑女のように歩いていた。
行過ぎる風に眉をひそめ、衣の乱れを気にする。
「お姉ちゃんの……意地悪」
小喬はそっと頭に手をやる。
指先で確認したところ、ぐしゃぐしゃにはなっていないようだった。
◇◆◇◆◇
夕方にも近い刻限に小喬は姉の元へ訪れた。
理由は簡単。
自慢するためだった。
「あのね。お姉ちゃん!
えへへ」
背中に隠しながら、小喬は衝立を回りこむ。
「どうしたの? 小喬」
窓辺で刺繍に勤しんでいた大喬は、手を休める。
針の始末をしてから、妹を出迎える。
「周瑜さまにお土産をもらったの」
「そう、良かったわね」
大喬は穏やかに微笑む。
流れるように美しい所作で、妹に椅子を勧める。
「これというのも孫策さまのお陰だよね」
小喬は椅子に浅く腰掛け、笑みを浮かべる。
「どういうこと?」
「昨日のことなんだけど。
また孫策さまが、お城を抜け出したでしょ」
「ええ。そんなこともあったわね」
大喬はうなずく。
「それで周瑜さまが探しに行ったの。
その途中で立ち寄った装身具屋さんで、これがあったんだって」
小喬は卓の上に、隠していた小箱を載せる。
堅い木箱を静かに開ける。
中には、一対の耳飾りが入っていた。
「それでお土産なの」
ニコッと小喬は笑う。
「良かったわね。
でも、周瑜様が店に立ち寄るなんて、珍しいわね」
「うん。
あのね。
そこに孫策さまがいたんだって。
しかも長いこといたのに、何も買わずにはいかないからって」
「それって、お二人が長いこと、その店にいたってこと?」
大喬がおっとりと尋ねる。
「うーん、よくわかんないや。
とにかく、たくさん考えてのお土産だって言ってたよ」
少女は素直に答える。
「装身具屋さんって、女性の装身具を扱ってる店よね」
「そうだと思うけど?」
「……そうなの」
「どうしたの? お姉ちゃん」
小喬は目を瞬かせる。
「ううん、何でもないわ」
頭を振り、いつものように優しく姉は微笑む。
一瞬見せた曇り顔は、見間違いだろうか。
小喬は小首をかしげる。
「その耳飾りと同じ色の石のかんざしがあるのよ。
私よりも小喬のほうが似合いそうだと思って、あげようと思っていたの」
大喬は立ち上がる。
飾り棚に置かれた木箱を手に取る。
「いいの?」
「私がつけるには深すぎる色だから。
ああ、そうだわ。
仕立てあがったばっかりの衣もあるのよ。
小喬のために刺繍をしたの。
もちろん着てくれるわよね」
「うん!
ありがとう、お姉ちゃん!」
「せっかくだから、着付けてあげるわ」
大喬は木箱を片手に言う。
「え。でも」
少女は迷う。
できたら、姉の勧める格好はしたくない。
それは動きづらく、華やかで、美しいものだろう。
今の姉のような姿だ。
宴などで、どうしてもしなければならないとき以外は、したくなかった。
「まだ耳飾りをしたところを周瑜様に、お見せしていないのでしょう?」
「う、うん」
小喬はうなずいた。
もらったときは嬉しくって、お礼ばっかりして、付けなかった。
それに、先に自慢したくって仕方がなかったのだ。
ちゃんとしようと思っていたけれど、後回しにしていた。
「きっと、周瑜様も喜んでくれるわよ」
大喬は言う。
「そ、そうかなぁ?」
「絶対よ。
美しく装った小喬を見て、もっと夢中になるわ。
だからね。
ちゃんとした格好をしましょ、たまには」
大喬は満面の笑みを浮かべた。
それに気おされて、小喬はうなずいた。
何故だか良くわからなかったけれど、姉に逆らってはいけない。
そんな気がしたのだった。
◇◆◇◆◇
小喬は着飾るのが苦手だった。
動きづらくなる、という理由だけではない。
誰にも話したことのない理由があった。
着飾って並ぶと、姉との差がはっきりする。
どちらがより美しいか、それが誰の目にも明確になる。
淑やかで、楚々とした美しい姉に比べられる。
それが好きではなかった。
走り回っていれば、二人に優劣をつけたりはしない。
似てない姉妹だ、と言われて終わる。
院子で咲き誇る牡丹と野を駆ける子兎を比べたりしないように。
小喬は唇をかむ。
早く周瑜さまに会って、衣を脱いでしまおう。と小さな頭は考える。
嘘をつくことなど考えてもみない。
人を騙すことなど、小喬には思いつきもしないのだ。
だから、足を早く前に出す。
長い裳裾は、つやつやして綺麗だったけれど、歩きづらかった。
風が吹くたび、たっぷりとした袖はふくらみ、髪飾りが鳴る。
何かの拍子でかんざしが落ちたりしないか。
小喬はハラハラしていた。
落ち着きなく視線が建物内を走る。
できるだけ早く。
耳を極限まで澄ましていると、普段は聞こえたりしないひそひそ話が聞こえてくる。
小喬の姿について、みんなが噂している。
注目を集めるのはそれほど嫌いじゃないけれど、こんな形はイヤだった。
心臓がバクバクして、泣きたい気分になる。
「――」
曲がり角から声が聞こえてきた。
大声で話しているつもりはないのだろうけど、内容が筒抜けだった。
孫呉がいくら広いといっても、こんな話し方をするのは一人だ。
声がだんだん近づいてくる。
小喬は顔を上げ、さらに急ぐ。
近くに探し人がいるはずだった。
道と道が交差する角で、少女のこわばった頬がゆるむ。
「周瑜さま」
今までの心細さを訴えて、抱きつきたいぐらいだった。
きっと、着飾っていなければ、そうしていた。
長い裾が踏んづけそうで、邪魔だった。
「小喬か」
怜悧な容貌の青年は、かすかに驚いたようだった。
それでも小喬を抱きとめるように、右手が広げられる。
小喬の笑みはさらに深くなる。
裳裾をひるがえして、胸に飛び込もうとした。
そこへ
「へー。
馬子にも衣装って感じだな」
悪気のない孫策の声が、小喬を止めた。
やっぱり似合っていないのだ。と、少女は確信する。
知りたくもないことだった。
綺麗な格好は、全部お姉ちゃんのもの。
女らしいものは、全部お姉ちゃんのもの。
だけど……。
「孫策さまの馬鹿っ!!」
声の限りで叫んだ。
すっきりすることなんて、できるはずもなくて、小喬は走り出した。
複雑な髪型がぐちゃぐちゃになっても、かまわない。
綺麗な衣がぐしゃぐしゃになってもいい。
ちゃんと周瑜さまに見せたし。
お姉ちゃんとの約束も守ったんだから。
泣いたら化粧が崩れるから、泣けなかった。
それに、泣くのは小さな子どもになってしまったようで、イヤだった。
小喬は走りつかれて、立ち止まる。
特に目的もなく走ったから、見知らぬ場所だった。
人気のない院子は静寂に包まれていた。
それを自分が崩してしまったようだ。
路亭の柱に手をつき、少女は大きく息を吐き出した。
耳の奥で、まだバクバクと鼓動が響く。
思いっきり走ったから、口の中で変な味がした。
「どうやって戻ろう」
小喬は呟く。
見覚えのない場所は、一人ぼっちで放り出されたように恐ろしかった。
葉を鳴らして、秋風が通り過ぎていく。
その冷たさに思わず両腕を抱いて、ふるっと震えた。
大きな瞳は宙をさまよい、頼りになるものを探す。
ふわっ
冷たい風がさえぎられた。
「小喬」
不安を拭い取るように、優しい声が小喬の体を包み込む。
「見つかって良かった」
安心したと、そっと吐息がささやく。
どこよりも小喬が幸せになれる場所に、気がつけば絡めとられていた。
「周瑜さま!」
背中越しに伝わるぬくもりに、優しい腕に、小喬は目を見開く。
涙になりそうだった胸のもやもやが、すーっと溶けていく。
「つけてくれたのか」
耳朶がふれられ、首筋がなでられる。
乱暴なところはどこにもないのに、小喬の心臓はドキドキする。
「よく似合っている。
ありがとう」
昼間に聞くには、静かで、抑えた声。
何故だか、そわそわとしてしまう。
「孫策さまは、馬子にも衣装って……」
悪気はないってことかもしれないけれど。
思ったことを言っていることには変わりがない。
小喬の心に引っかかる。
「それは仕方がない。
彼には奥方以外はどれも同じに見えるのだろう。
だから許してやってほしい」
「お姉ちゃん以外は、みんな一緒なの?」
少女は一生懸命に考える。
夫である青年は、たくさんのことを知っていて、小喬にわかりやすく教えてくれる。
でも、いっぺんに覚えるには、本当にたくさんで、困ってしまうときが多い。
「世の男というものは、そういうものだ。
愛する女性が一番で、特別だ。
その他は、どれも同じに見える」
「え、じゃあ……」
小喬は玉の美しい帯飾りをいじる。
石の冷たい感じが、ホッとする。
「私には小喬が一番だ。
いつもの姿も小喬らしく魅力的だが、今日のような姿も良い」
「アタシ、綺麗?」
少女は思い切って尋ねる。
不安で心臓が体から飛び出してしまいそう。
一番で、特別なら……綺麗だって、言ってほしい。
そうだと言ってほしい。
「もちろん、綺麗だ。
また、私のために装ってほしい」
「周瑜さまのため?」
小喬は小首をかしげる。
「ああ、私だけに。
孫策のような失礼な人間には、見せてやらなくていい」
「それって周瑜さまと、二人っきりのときってこと?」
「そうだ」
優しい声がもっと甘くなる。
小喬はしばらく考える。
二人きりなら、他の人の目を気にしないですむ。
特別って言ってもらえた。
周瑜さまはお姉ちゃんと比べたりしない。
似合ってるって言ってくれた。
「うん、いいよ!」
少女は握っていた帯飾りを離す。
笑顔を浮かべ、背を預ける。
周瑜は優しく抱きとめてくれる。
それが嬉しくて、幸せで、小喬は
「周瑜さま、大好き!」
素直に自分の気持ちを伝えるのだった。