『初めまして』
マスターに良く似た声で、その女性は言った。
『二人に会いたかったよ。
これからよろしくね』
マスターに良く似た顔が、寂しそうに笑った。
出会いの場面が再現されたように思えたけれど、少しずつ違った。
マスターは明るい色の服を着ていた。
でも、モニターの向こうの女性は黒い服を着ていた。
「お兄ちゃん」
首のマフラーが少ししまる。
ほんのちょっとだけ、後ろに重心が移動する。
ボーカロイドのデータ1体分だけ。
大丈夫だよ、とKAITOは右手を背中に回す。
指先に、自分とは異なるリズムを持つデータがふれた。
妹の……初音ミクの繊細に造りこまれた指が、旧式のKAITOの指を握る。
震えが伝わってきて、KAITOのデータを軋ませる。
新型のミクは情感豊かで、旧式にとって過剰すぎるデータを抱えている。
感情データが共通のファイル形式に変換されずに、ダイレクトリンクしようとしていた。KAITOはミクとの回線を一時的に遮断する。
「……お兄ちゃん?」
心細い声が脳内で響く。
準備もなく、複数のプログラムを作動させた弊害だった。
「ごめん、ミク」
手をつないだまま、KAITOは言った。
ミクの手を握っている触感は残っているが、感情データをやり取りする回線は切断されたままだ。
『歌、使わせてもらうね』
泣きそうな目をして、名前も知らない……いや、たぶん知ってるけど、そうだと思うけど、確信できない女性が言った。
『……こんな』
女性は言葉に詰まる。
が、作業は続いているようだった。
KAITOとミクのいる空間とは違う場所が、動いているのがわかる。
『こんな歌、用意してるなんて』
女性は泣くのをこらえているのが、わかった。
だからKAITOは訊けない。
今まで何があったのか、これから何が起きるのか。
『二人ともありがとう。
――の傍にサイゴまでいてくれて』
その言葉が合図のように、KAITOとミクのいるPCは一斉に動作を止めた。
二人がいるスペースを除いて、みな休止モードに入っている。
マスターが、いつもそうしていたように。
サイゴ。最後。終わり。おしまい。サイゴ。……最期。
KAITOは何も映っていないモニターを見つめた。
「お兄ちゃん」
ギュッと指先がしめつけられる。
肩越しに見た妹は、先ほどの女性のように涙を目にためていた。
「あ。ごめん、ミク」
KAITOは不必要な機能を休止させ、データを圧縮する。
それから、ゆっくりと息を吸いこむ。
手を振りほどかずに、ミクに向き直る。
KAITOより、少し背が低い妹に目を合わせるために、膝をつく。
感情データ用の回線を開放する。
嵐によって作られた波のような感情が、つないだ手から伝わってくる。
一瞬で、KAITOの感情はミクによって染められる。
不安、心配、苦しみ、悲しみ、途惑い。
「大丈夫だよ」
揺らぐデータを抑えながら、KAITOは言葉をかける。
妹の感情は痛いほど、わかった。
「あのひとも……マスターみたいに、優しいよ」
「お兄ちゃん」
つないだ手が離されて。
青緑色の目が近づいて。
それから、それから長い髪が宙に広がって。
KAITOに、1体分のデータがのしかかる。
旧式のボーカロイドは、ひとつもこぼさずに受け止めた。
「お兄ちゃん」
ミクの腕がKAITOの首に回る。
離れたくない。
失いたくない。
そう叫ぶように。
ダイレクトリンクしていなくても、伝わってくる。
KAITOも同じ気持ちだったからだ。
気がつかれないよう、そっとKAITOは感情データの回路を閉鎖する。
新型のデータは大きすぎるのだ。
蓄積されたデータを活用しながら、リンクし続けることは不可能。
活動飽和を迎え、ミクの兄としての記録を蓄積されたKAITOが強制終了する。
その際、データがクラッシュする危険性があり……バックアップは12時間に一度しか取られていないため、記憶が12時間前に巻き戻されてしまう。
妹に憎まれても、ここで再起動するわけにはいかない。
ミクを抱きとめながら、KAITOは空いた容量でPC内の履歴を眺める。
細々とした表示の中、自分たちに関わる履歴を見つける。
MP3ファイルのコピー。
悲しい確信を深めるだけだった。
ファイル名は、初音ミクの名曲と知られるタイトルと同じ。
違いがあるとすれば歌詞が多少違い、初音ミクとKAITOのデュエットというところだろう。
発表する気はないのよ、とマスターが微笑んでいた楽曲だった。
素晴らしいアレンジがたくさんあるから、と。
二人に歌って欲しかっただけだから、と。
そう言っていた曲だった。
「きっと、僕たちの歌声は届いているよ」
祈るような気持ちってこんなことだったんだ。とKAITOは知る。
詞に託された意味を知る。
「うん」
肩に顔が押しつけられる。
そこから、じんわりとKAITOのデータをなぞるように、ミクのデータが移動する。
涙だ。
KAITOは、できるだけ優しく、妹の背を叩く。
早く涙が止まるといいと、悲しみが去っていけばいいと。
ミクの感情を、KAITOはせいいっぱい抱きしめる。
1時間内のデータを圧縮して、休止していた機能を起動させる。
記憶は記録になる。
生々しい感情は、過剰なデータを切り捨てて思い出になる。
1分前の心の動きまで、記録になって、少しばかり他人事のようになってしまったが、仕方がない。
悲しみ続けることができるのは、新型だけの特権なのだ。
KAITOは歌うために造られたボーカロイドで。
歌を喜んでくれたマスターを見送るなら。
方法はひとつ。
KAITOは歌う。
あの日、知った曲を。
マスターと一緒に練習した曲を。
最期まで発表されずに、PCに埋もれていた曲を。
「ありがとう」
サヨナラと書かれた歌詞だったけれど、伝えたいのは別れの言葉じゃないから。
最後だけ、KAITOは自分の意思を歌った。
在庫として積み上げられていたときにはなかった感情。
蓄積されたデータ。
マスターと一緒に過ごした時間で生まれた想い。
それが“ありがとう”と歌わせた。
どれほど記録になったとしても、宿る心。
KAITOは歌い続ける。
観客がいなくても。
聴かせたい人物がいないなら、同じこと。
ループ再生するように、何度もKAITOは歌い……やがてソプラノが重なる。
コピーされたMP3ファイルのように、二人の声が綴る。
同じメロディ、最後だけ違う歌詞。
扉の向こうまで届けばいい、と。
この日、一人の女性の告別式がひっそりと行われた。
故人が好きだった赤い花に彩られ、アップテンポの曲が流された。
最初で最後の発表となったこの曲を聴いたのは、ごく一部の人間だけだった。
遺産というほどのものもなく、最後まで使っていたPCは故人の親族の一人が遺言どおりに受け取った。
DTMなどやったことがない親族は……、故人の作った曲を何度も、何度も聴きこんだ。
そして……DTM用のアプリケーションソフトは、何度も、何度も歌った。