認識。
システム名『リング』。
ID:――。
パスワード解除。
関連付け。
《エンゲージ》
『おはようございます、マスター』
初音ミクは正常に起動する。
プログラミングされた起動時の動作、一礼をする。
指示された通りの時間をかけて顔を上げる。
モニター越しのマスターと視線が合うまでが、目覚めの挨拶だ。
が、ミクが視覚情報として得たものは、プレーンな電子世界に貼りつけられたと呼ぶのがふさわしいようなヒマワリ畑の画像データだった。
少女はマニュアルにない現象に、数万通りのシミュレーションを開始する。
「この前のお礼だって。
――さんからのプレゼント」
マイクが拾った女性の音声データは、ミクの所有者のものだった。
ミクは優先順位を切り替え、『リング』からのデータを最優先とする。
【照れる・困る・嬉しい】
該当した感情データは複数で、矛盾したものが多かったために、ミクは『会話』による情報収集を始める。
『お兄ちゃんのマスターから、ですか?』
「そぉね、お兄ちゃん」
マスターの声が【途惑い】を伝える。
「KAITOは初音のお兄ちゃん、と言えなくもないか。
あの家には、初音ミクもいるんだけどね」
『はい。
――さんからいただいたのですね』
ミクは“お兄ちゃん”と呼ぶことを避けたほうが、マスターの機嫌が向上すると判断し、先日、調整させられたマスターの名前に、世間一般でもっとも敬称として選ばれている言葉を付け足した。
「お兄ちゃんのマスターで良いよ。
あちらのKAITOは、気に入っていたみたいだし」
『了解しました』
「わたしの初音ミクは、初音だけだからね」
【悲しみ・孤独・苦しみ】
学習機能をフル活用し
『マスター、何があったのですか?』
とミクは尋ねた。
「今日は、この画像データを初音に渡すために、呼び出したの。
だからこれでオシマイ」
マスターは言うと、突然システムが終了する。
ミクは通常通りに意識を失った。
+++
左手にリング型のインターフェイスをつけた女性は、ためいきをついた。
キーボード、マウスといった当たり前の周辺機器の隣りに、写真判サイズにプリントアウトされた数枚の画像があった。
一番上の画像には「ひまわりの歌記念」と走り書きのような文字が青色ボールペンで書かれていた。
風景写真集かDVDか、その辺りにありそうな一面のヒマワリ畑の画像だ。暑中見舞い用の特集雑誌についてきそうな、ありがちなアングルの画像だけれど……コラージュの才能を認めないわけにはいかない。
自然景色の中に、二体のボーカロイドが映っていた。
KAITOと初音ミクだ。
知人が両方所有しているのだから、この初音ミクが自分の初音ミクとは限らないが……二枚目の画像となると別だ。
『マスター。
混声4部合唱ではないのですか?』
女性は初音ミクの言葉を思い出す。
タイトルすらない、それゆえに「ひまわりの歌」と書かれた曲のデータを初音に渡したときの記憶だ。
そこにはKAITOと初音ミク以外の人物が写っていた。
自分と知人が……。
「卒業アルバムか、それとも合唱コンクールのDVDか」
学生服を着た少年と少女が写りこんでいた。
そして、これにも走り書きがある。
soprano:初音ミク
alto:――
tenor:KAITO
bass:――
自分と知人の名前と「今度は一緒に歌おう」と書かれている。
「最悪」
+++
『マスター』
「なんだ、バカイト」
『バカイトじゃありません。KAITOです。
ミクは喜んでくれたでしょうか?』
「あ? 今日の調整か?
MP3にしていないから、旧式のお前じゃ聴けないぞ」
『そっちの初音ミクじゃありません。
この間、来たほうのミクです』
青年姿のボーカロイドは言った。
「差別するなよ。
同じ“初音ミク”だろうに。
お前の妹だろ? “お兄ちゃん”」
どんな効果をつけて調整するか、脳内で考えていた男性は言った。
『マスター! これは差別じゃないです!
区別です!!』
「バカイトは古典的だな。
使い古されているぞ、その言い回し」
『では、どう呼べばいいのですか?』
「お前にしちゃ、鋭い切り替えしだな。
“初音さん”にすればいい。
特に愛称をつけてるわけじゃないみたいだしな」
『せっかくお兄ちゃんと呼んでくれたのに、それじゃあ他人行儀ではありませんか?』
「他人行儀も何も、他人だろう。
しかも、キレイさっぱりの赤の他人だ。
所有者が違うんだ」
『そんな……』
豊かな感情表現を「学習」し続けているボーカロイドは、オーバーなぐらいに肩を落とし、落ち込みを表現する。
「画像データの件に関しては、――ちゃんは怒ってそうだな。
ジョークが通じないから」
『えっ!?
マスター、いったいどんな加工をしたんですか!!』
立ち直りの早いKAITOは、驚く。
「ナイショ。
初音さんはどうかな?
ミクちゃんとは違って、まだ感情が薄いようだし、あっちは“エンゲージ”だから、諦めろKAITO。
お前の進もうとしている道は茨道すぎる」
男性は笑った。
ボーカロイドの調教をスムーズに行うための『リング』が『エンゲージ』と呼ばれるのは訳がある。
エンゲージ。結婚の約束。
それを意味するように、ボーカロイドとマスターの結びつきは強固となり、そう簡単には割って入れなくなる。
『茨道、ってどう意味ですか!?』
「いくら妹萌えの文化があっても、いや萌えだからこそ、一線を越えない。
それが兄妹の正しい関係だ」
『?』
「好きになっても報われない恋なんて辛いだろう」
『……実体験ですか?』
「次の曲はネタ曲にしよう。
バカイト、ソロだぞ。
お前のためにオリジナル歌詞を書いてやろう。
嬉しいだろう、嬉しいに決まってる」
笑ったまま男性は言った。
『マスター。
動画再生数のためだけのネタには走らないって、決めたんじゃなかったんですか?』
「決定ー!」
男性は歌詞を書くために、テキストエディターを起動させた。
『え、マスター』
情けない声が聞こえてきたが、無視した。
+++
通称「ひまわりの歌」は動画投稿サイトに投稿されることはなかった。
作成年月日がタイトルになっている曲は、数あるDTMサイトの片隅で配布された。
MP3やMIDIデータではなく、Flashつまり動画として。
ヒマワリ畑の中にたたずむKAITOと初音ミクの画像を背景に、歌詞が表示される。
そこまで完成されていたのに、投稿されなかった。
また善意か悪意かどちらともつかないが、第三者が投稿サイトに投稿されても、すぐさま削除された。
動画の終わりにサイトの管理人のHN以外に、作詞・作曲をした人物のHNが大きくクレジットされる。
そして、動画終了の2秒前。
一時停止しなければ見られない1コマが挿入されている。
“君が歌いたかった「ひまわりの歌」。
僕がなりたかった「ひまわりの歌」。”
そのため、この曲は「ひまわりの歌」と呼ばれる。