『マスター。
この曲はどんなイメージですか?』
起動中の初音ミクが問う。
「合唱曲」
猫背気味にデスクに頬杖をついた女性が言った。
すっぴんにキャミソールという、やる気のない外見のせいか、40才にも、50才にも見えるが、ミクの想定年齢の2倍以下の年齢だ。
「無伴奏、混声2部合唱」
『マスター。
混声4部合唱ではないのですか?』
「訂正。オケは作ってあるよ」
女性は手元の歌詞カードを見る。
その辺にあったコピー用紙に、シャーペンで殴り書きしただけのメモだ。
パソコンのメモ帳で清書したものは、すでにミクに渡してある。
16才という外見設定の少女が見つめているデータが、それのはずだ。
『混声2部合唱を児童合唱と定義するなら、他のボーカロイドをお勧めします。
鏡音リン・レンを購入しては、どうでしょう?』
ミクは冷静に言った。
「歌いたくない?」
『そのような感情はプログラムされていません』
「だよねー」
女性は苦笑した。
歌うために造られたボーカロイド。
「じゃあ、合わせていこうか」
女性はオケ用のファイルを開く。
『マスター。まだデータが不足しています。
この曲のジャンルは理解しました。
どのような情感をこめて歌えばよろしいのでしょうか?』
ミクは尋ねる。
「初音ミクにふさわしく」
マスターと呼ばれた女性は言った。
『抽象的な概念のため、理解できません』
「そうだね。
まんま歌ってくれればいいよ。
音符の通り、指示記号の通りに」
『了解しました』
“今は面影 黄金(くがね)の花よ
懐かしい夏の中を 咲く花よ 花よ”
スピーカーから歌が流れてくる。
歌詞カードを追いながら、人間は機械の音に耳を澄ます。
+++
“今は面影 黄金(くがね)の花よ
懐かしい夏の中を 咲く花よ 花よ”
再インストールされるのも、慣れた。
1年経たずにパソコンの中身を入れ替えるマスターのおかげ。
数ヶ月ごとに、ミクが間借りしている家の内部は、変更されていく。
データを引き継いでいるおかげで、認識できているけれど。
“金の日差しを受けて
照る陽のように耀(かがや)いて”
初めて歌った合唱曲はソプラノパートしか知らない。
マスターがミクに歌わせた段階で、計画を凍結したため。
歌詞も1番までしか用意されていない。
オケのピアノは3番まで出来上がっていたのに。
今のミクは、それをもったいないと思う。
“追いかける 君の御姿
咲く花に思いたくす”
調整の途中だったため、ミクは下手なままだ。
それなのに、マスターは再インストールする度に、この歌をミクに歌わせる。
“夏の彩り 耀く花よ
今は清らに 咲く花よ”
どうしても理解できない気持ちだった。
「うん。
ちゃんと引き継げたみたいだね。OK」
マスターは言った。
初音ミクを調教しやすいように作られたフリープログラム『リング』が、ミクにデータ化して、マスターの気持ちを伝える。
【納得・満足・諦め・寂しさ】
人間が指にはめたリング型インターフェイス、プログラム名と同称の『リング』は、発汗、脈拍、体温など、数十項目をチェックする。
シャレで左手の薬指をはめる所有者が多かったので、このシステムを『エンゲージ』と呼ぶ者もいる。
『マスター、質問です』
「何?」
デスクに頬杖をついてマスターが言った。
『この曲は発表しないのですか?』
「そうだねー。
合唱曲なんて、流行んないし。
誰も注目しないよ。
それに依頼曲があるから、趣味ばっかりじゃねー」
マスターは【寂しさ・苦しさ】を言う。
ミクは胸が痛んだ。
少なくとも、【悲しさ・苦しさ・切なさ】が該当した。
『計画では混声2部合唱でした。
私も違うパートを聴きたいです』
「も?
“は”じゃなくって?」
『はい。間違いではありません』
「そっかー。
ミクは言い間違えなんてしないもんね。
そうだね、うん。
じゃあ、近いうちに、お兄ちゃんにやってもらおうか」
『お兄ちゃん? ですか?』
「そ、お兄ちゃん」
マスターは言った。
+++
「悪いんだけどさ。
うちのミクとコラボってくれない?
え? あ、曲?
オケはできてるよ。
しょぼいんだけど……笑うなぁ!
これでも一生懸命に作って……って聞いてる!?
歌詞が1番しかないから、ショート版にアレンジするから……えっ?
いや、ちょ、無理です、無理です。
今から続きを書くのは無理です。
初音に愛があってもできません、私にはできませ。……!
いや。うん。
うん、そうだけどさ。
データだけじゃダメ?
あのね、エンゲージしなきゃ、初音も無理だったんですよ。
一番、良い子の!
知ってるでしょーよ。
う。
………………わかりました。
ガンバリマス」
+++
次にミクが目覚めた場所は、まったく知らない場所だった。
(ここ、どこ?)
パソコン内部に差があるのには慣れていた。
再インストールされるのだって、しょっちゅうだった。
でも。
ミクは周囲を見渡した。
大きな花。黄色の花。ミクの背丈よりも大きい花のデータ。
それが規則正しく、不規則に並んでいた。
(地面!!)
ミクは地面に立っていた。
継ぎ目がないプレーンな床ではなく、でこぼこして、陰影がある地面だ。
(3D……だぁ)
少女は顔を上げた。
そこには青い空があり、雲がゆったりと流れている。
ミクは恐る恐る歩き出す。
データの黄色の花にぶつからず、少女は通り抜けられる。
今までと同じで、継ぎ目のない床を歩いている感覚だ。
(画像フォルダの中なのかな?)
『初めまして、ミク』
『えっ!』
少女が想定していない範囲から声をかけられた。
しかもマイクが拾った音声データでもなく、『リング』が拾ったデータでもない。
ミクと似たデータの塊。
『KAITOだよ。
今日は一緒に歌うんだよね』
青年姿のデータが言った。
旧式エンジンのボーカロイド。
『お兄ちゃん?』
『嬉しいなぁ、認めてもらえて』
KAITOは言った。
ミクはマスターが言った言葉を発声しただけなのだけれど、誤解をさせてしまったようだ。
『ミクのマスターが、ミクを連れてくるって言ったら、僕のマスターが喜んじゃって。
昨日まではシンプルだったんだけど、こんなに飾り立てちゃって。
おかげで僕のマスターは寝不足なんだけど、自業自得かな。
ミクはどう思う?』
『どうしてそんなことをしたんですか?
その……お兄ちゃんのマスターは?』
KAITOさんのマスターと呼ぶのと、どちらが良い結果をもたらすか1秒シミュレーションした結果、ミクはお兄ちゃんを採用した。
マスターとの結びつきをより高めるためだ。
『今日の歌はヒマワリの歌だから、雰囲気作りだって。
だから、ヒマワリ』
KAITOは黄色の花を指し示す。
『“黄金の花”はヒマワリなんですね』
(これがマスターの書いた詞の花)
ミクは黄色の花を見上げた。
『さあ、一緒に歌おう』
『え! 私のデータは足りていません』
オケは3番まであるのに、歌詞データは1番までしかない。
『らららで歌えばいいよ。
マスターたちが呼ぶまで、時間がかかるだろうし』
KAITOは言った。
ミクは『リング』のデータを探知しようとしたが……
(接続できない!)
『マスター!?』
少女は混乱した。
ミクが呼び出されるとき、常時『リング』は動作していた。
すべてが異常事態だった。
『ミクのマスターは“エンゲージ”だっけ。
大丈夫だよ。
ミク、安心して』
KAITOは言った。
「お待たせ。
えーっとミクは、初音さんで良いのかな?」
スピーカーが、人間の男性の音声データを拾う。
「コラボってわかるかな?
俺の家のバカイトと、混声2部合唱をしてもらいます。
……あのさ――ちゃん。
君の家、初音ミクをどんな風に扱ってたの?
めちゃくちゃ拒否られてるんですけど」
「私の初音に文句つけないで!」
『マスター?』
ミクは所有者の音声データに反応した。
「お、子犬のように可愛いね。
家のバカイトも、こんな時代があった」
『マスター。僕はバカイトではなく、KAITOです』
「“エンゲージ”は便利なんだけどコラボのときは邪魔だから、悪いけどこのまま行くよ。
あと初音さんにデータ追加、ね」
男性が言った。
ミクの目の前にフォルダが現れる。
知らないデータにふれる危険性を十二分に知っている少女は、そのフォルダを見つめる。
『ウィルスじゃないよ。
大丈夫だから、ね』
KAITOが言った。
「こっちはバカイト用」
空中に、ファイルがもう一つ増える。
ファイル名は「bakaito」となっている。
『僕はKAITOです』
「いつもはスルーするのに、今日は突っかかるなぁ。
もしかして初音さんがいるからか?」
『僕はミクのお兄ちゃんですから。
もうバカイトじゃありません』
KAITOはファイルを受け取り、読み込む。
「そうか、お兄ちゃんか。
得意分野だし、頑張ってもらうぞ。
――ちゃん、君の家の初音さんにも言わないとダメっぽいですけど」
男性は言った。
「フォルダの中身は歌詞データと楽譜。
修整したから、確認して」
『了解しました』
ミクはマスターの声を認識して、フォルダを受け入れる。
圧縮されたデータが展開していく。
増えた音楽記号。
新しい歌詞。
そして――。
少女は青年を見た。
凍結されていた計画が解凍される。
『よろしくお願いします』
ミクはKAITOに言った。
『こちらこそ』
青年型のボーカロイドは微笑んだ。
+++
「――ちゃんが、初音ミクを買うって聞いたときは驚いたんだけどさ」
「悪かったわね」
「ちゃんと歌えていたから、もっと驚いた」
「底辺Pですよーだ」
「でも、なんでこんな曲?
キャラじゃないでしょ」
「だから発表してなかったし、あんたにも言ってなかったの」
「KAITO持ってないのにKAITO前提だし」
「次のボーナスで購入するつもりだったの!」
「使えるの?」
「……使えたら、初音を連れてこなかった」
「だよねー」
「そんなに変?」
「DTMなんて興味なさそうだったから、さ」
「初音ミクは、理想なの。
音を外さないし、声変わりもしないでしょ」
「歌いたかったの?」
「合唱で、ソプラノは華だからね。
歌いたかったかなぁ……一度くらいは」