誰かに見せるわけではない舞だった。
楽曲も手拍子もついていない。
観客すらいない。
院子で綻びはじめた花たちだけが知っている。
それを偶然、観ることができたのは幸運だった。
使いの途中だった少年は、見入る。
明るい色の髪が風にさらわれる。
圏が宙を斬る。
金の耳飾が陽光を弾く。
少年は目を細める。
宴会で見るのとは違う。
実践的な舞はためいきを禁じるほど美しかった。
ふいに緑の瞳と絡んだ。
舞は中断された。
「あら、陸遜。
いつから、そこに?」
気さくに孫呉の弓腰姫は笑った。
尚香は二つの圏を右手に通す。
額に浮かんだ汗を手の甲で拭いながら、近づいてくる。
「つい先ほどからです」
「声をかけてくれれば良かったのに」
「鍛錬の邪魔をしたら悪いですから。
それに」
陸遜は小脇に抱えていた竹簡の束を示す。
「お使いの途中?」
「そうです。
素敵なものを見させていただき嬉しかったです」
「そう?
私なんて、まだまだよ」
院子中の緑を集めても敵わない双眸が少年を見つめる。
鍛錬を怠らないのは戦場に立つ者として当然だ、といわんばかりだった。
「私は姫の圏が好きですよ」
少年は何気なく言った。
世間話の一環のつもりだった。
少女の瞳が大きく開かれる。
それから、眩いぐらいの笑顔になった。
陸遜の心臓が跳ねた。
「私、三国一の幸せ者よ。
だって、一番大切な人から、好きって言ってもらえたもんだもの。
これ以上の幸せはないわ」
明るい声が嬉しそうに言った。
少年は本音を見透かされたのかと思った。
心の底にしまっておいた感情がもれてしまったのだろうか。
「好きの種類が違うって言うのでしょ?
でもね、陸遜。
言ってもらえたことが嬉しいの」
尚香は明朗快活に言う。
少女の勘違いに助けられた。
知られてはいけない恋心だった。
大事に秘めておかなければならない。
陸遜は、ただの臣下なのだから。
じゃじゃ馬だといわれる少女もいつかは娘らしく装って嫁ぐだろう。
それを物分りの良い顔で見送る。
二人の間に、予定された運命だった。
陸遜がいくら陸家の当主とはいえ、少女とは格が違う。
少女は孫呉の宝なのだ。
そんな大切な物を手に入れるのは武勲が足りない。
竹簡を握る手に力がこもる。
使い走りの少年には、不釣合いだった。
「好きって言ってくれて、ありがとう」
一つ分だけ大人の少女は言った。
「お礼を言うのは、こちらの方です」
陸遜は心からの気持ちを混ぜる。
あなたと同じ気持ちなのです。
そう言えれば、どんなにいいだろう。
「用事があるので失礼します」
言い訳をするように陸遜は言った。
「引き止めてしまって、ごめんなさい」
すまなそうに尚香は言った。
「いえ、私が話をしたかったので」
できることなら、ずっと一緒にいたい。
緑の瞳が写す未来を見ていたかった。
「用事が終わったら、付き合って」
「もちろんです」
少年はうなずいた。
用事を言いつけられるばかりだから、いつになるかわからない約束だった。
それでも約束できることが幸せだった。
「それでは」
「またね」
少女の笑顔に見送られる。
早足で少年は立ち去る。
後ろ髪を引かれる想いとはこのことだろう。
心に刻みつけられるように、実感した。
もっと早く生まれてきたかった。
そうしたら、二人の将来は違ったものになっていただろう。
何もかもが足りなかった。
少女の幸せの隣に、自分がいたかった。
好きだという言葉に、真っ直ぐと返したかった。
誰にも悟られてはいけない恋心は、胸の内でくすぶる。