孫呉の都、建業。
人当たりの良い少年の部屋も、ここにあった。
その穏やかな性質とは裏腹に、彼の部屋に訪れる者は少ない。
少年の姓が「陸」であることにこだわる人間もいるにはいたが、それだけではない。
彼の部屋は院子に面した、なかなか良い部屋だったが、壁一面が書棚となっていた。
一抱えもある竹簡や木簡が隙間なく積まれている。
中身は古今の兵法だ。
武に偏りがちな人間には居心地の悪い空気が流れていた。
静かで、枯れた木の匂いが満ち広がる。
竹林にでも迷い込んでしまったような幽玄があった。
部屋の奥では、歳に似合わぬ諦めを漂わせた少年が待ち受ける。
用がなければ踏み込んではいけないような。
その部屋は、静かな拒絶に包まれていた。
だから、この部屋を訪れる者は少ない。
そう、少ない――。
決まって昼下がり。
駆け込んでくる軽い足音を聞く。
昼下がりなのは、早朝は鍛錬があり、午前は講義で、昼食を挟むと、この時間になる。
陸遜のほうも同じような一日で、時が穏やかに流れる昼下がりに、ようやく自分の時間が持てる。
戦の前でなければ、書斎で竹簡の紐を解く。
そんな時間だ。
軽い足音は、身体が軽いため。
床を蹴り上げるような短い音は、走るせい。
どこにいても聞き分ける自信があった。
「ねえ、陸遜」
今日も飛び込んでくる澄んだ声。
陸遜は顔を上げ、乱入者を見つめる。
午後は礼法だろうか。
珍しく女性らしい服装をしていた。
軽やかな裳も、柔らかな袖も、女官の苦労がにじんでいた。
走っても極力乱れないように着付けられている。
乱れた髪が目に入らなければ、走ってきたようには見えなかっただろう。
「お願いがあるの」
緑の瞳が印象的な少女は、顔の前で手を合わせる。
「あなたにしか頼めないの」
心憎い発言だったが、調子の良い乙女のこと。
額面どおりに受け取っては、後悔する。
いつだって、そうだ。
今度こそ、釘をきちんとささなければ。
頼られるのは嫌いではないが、都合よく付き合っていられるほど暇ではないのだ。
「ダメかしら?」
陸遜が答えないため、不安になったのだろう。
尚香は眉をひそめる。
「どうして、私なんですか?」
「私のお願いを叶えてくれるのは、あなただけだもの。
頼りにしてるのよ」
大真面目な顔で尚香は言う。
それもそうだ。
どうしても断りきれずに『お願い』を聴いてしまう。
他の人物であれば、もう少し要領よく断ってしまうのだろう。
結局、陸遜だけが尚香の『お願い』を叶えてしまう。
「忙しいんです」
陸遜は悪循環を断ち切るべく、冷たく言った。
「あら、そう?
陸遜がこの時間に、部屋にいるってことは、それほど忙しくはないはずよ。
本当に忙しいときのあなたは、つかまらないもの」
自信満々に尚香は言った。
鋭い観察だった。
それとも、経験論だろうか。
陸遜は心の中でためいきをついた。
「自分の時間を大切にしたいんです」
陸遜は竹簡に視線を落とす。
「……邪魔だったかしら?
追い払ったりしないから、気がつかなかったわ」
明るい声はいたって、のんきだった。
少年の視界の端を裳がさざめくように移動していく。
焚きこめられていたのだろうか。
かすかに花の香りがした。
竹簡が積み上げられた薄暗い部屋よりも、華やかに飾り立てられた部屋のほうがお似合いなような気がする。
「ほら、権兄さまとか。
邪魔だって、すぐつまみ出されるわ」
窓のあたりで、声が立ち止まる。
「できるだけ穏便にすましたいのです」
「陸遜らしいわね」
クスクスとした笑い声が耳をくすぐる。
陸遜は必死に、竹簡の文字を追う。
普段であれば難なく覚えられる文字たちが逃げていく。
胡蝶が舞うように、花が風に流されるように、陸遜の手から逃れていく。
「でも、そんなことじゃ、私を追い払えないわよ。
しつこいんだから」
尚香は言った。
陸遜は深く息を吐き出した。
読書ははかどりそうになかった。
一文字も進まないのだ。
白旗を揚げて、降参するしかない。
彼女には敵わない。
「今度は、どんな『お願い』なんですか?」
言葉が零れる。
陸遜は視線を走らせた。
窓際でピタリッと止まる。
陽光を静かに受けていた尚香と目が合う。
花が咲く。
春が来て、朝が来て、いっせいにほころぶように。
その生命を打ち震わせて、花弁を広げるように。
尚香は嬉しそうに笑った。
この笑顔のためなら、これからの苦労も報われる。
引き受けて、後悔することのほうが多いのに。
陸遜はそう思ってしまうのだ。
「ねえ、陸遜」
すりよってくる、甘美な呼びかけ。
「知ってる?」
緑の瞳を和ませて乙女は尋ねる。
「私は陸遜のことが大好きよ」
飾り気のない言葉だった。
鍛錬が大好きだというのと、同じ声音で。
晴れた日が大好きだというのと、同じ重さで。
それはもたらされる。
あふれだしそうなこの想いの名は、何と言うのだろう。
心のままに零れそうな言葉が……ある。
「都合が良いからですか?」
陸遜はそっけなく言う。
「違うわよ!」
「それよりも『お願い』って、何ですか?」
抗議の言葉を遮り、陸遜は質問した。
それでも、嬉しいと思ったんです。
利用されているだけ、とわかっていても、嬉しいんです。
昼下がり、軽い足音を聞くことが。
ここへ訪ねてきてくださることが。
そして、好意を寄せていただけることが。
この上なく、嬉しくて……仕方がないんです。
必要な言葉は――まだ、零れない。
お題配布元:陸尚祭2 17.零れる言葉
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