コンコン
風の音に混じって音が聞こえた。
小首をかしげながら、尚香は窓に向かう。
幾何学模様の格子がはまった玻璃の向こう、見知った顔があった。
「……!」
名を呼ぼうとする声をかみ殺す。
声を上げたら、耳聡い侍女たちが駆けつけてくる。
そんなことになったら、自分だけでなく、窓の向こうの人物まで迷惑がかかる。
すっかり眠気を覚ましてくれた相手を、緑の瞳はにらみつける。
少年は柔らかく微笑んだまま、手招きをする。
尚香を夜の世界へと誘う。
少女は部屋の中を見渡す。
人払いをしたばかりだから、誰もいない。
だが、念には念をいれる。
「待っていて」
唇だけで言葉をつづると、玻璃越しに笑顔。
無表情と同じ意味の微笑ではなく、嬉しそうな笑顔だった。
尚香は肩をすくめ、綿の入った長袍をまとい、はたと寝台に気がつく。
その辺に置いてあった竹簡やら、衣で、人の形を作って、布団をかぶせる。
紗を丁寧に下ろし、尚香は部屋を抜け出した。
これで遠目にはわからない。
たまには良いわね。
尚武の姫は、悪戯っぽく微笑むと灯りを吹き消した。
◇◆◇◆◇
昼間とは打って変わっての冷たい風。
指先が凍りつきそうだった。
冬枯れの院子に灯った小さな明かりを頼りに、尚香は走った。
「陸遜」
さっき呼ぶことの出来なかった名前を呼ぶ。
「ご足労をおかけしました」
少年は柔らく微笑む。
「寒いわね」
真っ白に凝った息が、黒い空へと溶けていく。
月の光を望めない日だけに、星が綺麗だった。
「姫と一緒なら、そんなに寒く感じませんよ」
陸遜は穏やかに言う。
その言葉も、白く残る。
「私は、陸遜と一緒にいても寒いと感じるわよ」
尚香はきっぱりと言った。
「姫らしいですね」
「それで、こんな夜更けに何の用?」
「用がないと、呼んではいけませんか?」
「普通の恋人同士なら、良いんじゃない?
用がなくても」
「では、私たちは用を作らないといけませんね」
恋人同士ではありませんから、と陸遜は小さく笑う。
「少し、歩きませんか?」
そう言いながら、灯篭片手に陸遜は歩き出す。
つられるように尚香も、その隣を歩く。
見慣れた景色も、夜見ると違って見えた。
星影がそこかしこに、深い影を落とす。
青玉から覗いてみたら、こんな世界だろうか。
ゆらゆら揺れる灯篭も、星のひとつのように思えた。
梢を鳴らす風と二つの足音だけが響く。
耐え切れなくなった尚香が口を開く。
「何の用があったの?」
深夜に、男と二人きりなのだ。
もし、兄に見つかったらどうするつもりなのだろう。
「たいした用ではないんですが。
お部屋にお邪魔するのは、見つかったときの言い訳が大変だと思って」
「そうでしょうね。
夜遅くに、二人っきりだったら、激しく誤解を生むわね」
尚香は納得した。
夜の散策の方が何倍もマシだろう。
「姫の名誉が傷つくと思って、遠慮したんです。
普通、こんな寒い夜に、外を歩く人間がいるとは思わないでしょう?
いい目隠しになると思ったんです」
陸遜は立ち止まる。
大きな樹が邪魔して、どこの部屋からも死角になる場所だった。
「本当に、たいした用じゃないんです。
多分、呆れますよ」
「前置きはいらないわ」
「姫を独り占めしたくなったんです」
あっさりと陸遜は言った。
雰囲気もあったもんじゃない、そんな言い方だったため尚香は首をひねる。
恋の告白らしき言葉だったはずだけれども、違うのかもしれない。
「何で、今日なの?」
「今夜で、今年が終わります。
このまま一緒にいれば、来年のあなたも独り占めです。
今年最後のあなたと、来年最初のあなたを独占する機会は、そうそうありませんから」
真っ白な息と共にもたらされたささやきに、尚香は失笑する。
真剣な面持ちとの落差が激しい。
「子どもっぽいわよ」
少年が一番気にするであろう言葉をかけた。
「虚勢を張っても効果がありませんから」
陸遜は笑った。
玻璃越しに見た笑顔と同じものだった。
「じゃあ、私も今年最後の陸遜と、来年最初の陸遜を独り占めしてるのね」
尚香は言った。
「そうですね」
ままごとみたいなやりとり。
それが今の自分たちに相応しいような気がした。
だから、これが一番良い。
これから来る年には、違った二人がいるかもしれない。
だから、今はこれで良い。
二人は、来年を静かに待った。