立ち止まらない奇跡

 月の出ている夜だった。
 怨霊が徘徊する祖龍の北は陰気で、沈みこんでいる。
 清浄な月の光の中でも、その淀んだ空気は払うことができない。
 青黒い世界の中、統風はそれを見ることになった。

 息の仕方を忘れた。
 時が凍ったかと思った。
 目に入るものを容認できなかった……。
 紫色の巨大な蜘蛛の形の怨霊がいた。
 何頭も。
 倒しても倒しても。
 その分だけ、分裂するように。
 それは数さえ定かではないように、何頭も巨腹グモは群れていた。
 人よりもわずかに低い丈の、蜘蛛が視界を覆う。

 それは、それは……最も唐突に!!

 胸倉をつかまれ、そのまま腹に鈍い鉛を突き立てられたように。
 衝撃が走った。
「凍夜さん!!」
 精霊師の少年は、蜘蛛の群れの中で崩れいく女性の名を叫んでいた。
 世界がどれほど暗くても見失わない輝き。
 それは、強烈に闇を裂く流星のような、光。
 堕ちて……いく。
 透明感のある白い腕が、染まっていた。
 血と猛毒。
 膿みただれ、腐り落ちる肉。と、赤い血。
 夜目にも鮮やかに。
 いや、夜だからこそなおいっそう鮮やかに。
 冷たい冬の闇。真夜中の象徴が、反対の色に染まっていく。
 統風は走ったが、あまりに遠い。
 精霊師として、未熟であるが故に……届かない。
 何も、何も、何も……できない。
 風を呼ぶことも、癒しを与えることも。
 まだ、間に合わない。
 気持ちの速度に体が追いつかない。
 統風はそれだけを、見ることしかできなかった。
 緑の瞳は、冬闇色の髪が乱れていく様と、白い肌が傷つけられいく様と、生命が削られていく様と。
 瞬き一つもできなかったから、焼きついた。
 違う。瞬きするほどの時間ではなかった。
 あっと言う間だったのだから。
 狼に似た妖精の眷属が走っていくのが、ひどくゆっくりに見えた。
 黒と白の披毛を持つリアトロウルフが巨腹グモを噛みつく。
 体当たりするように、その隣の怨霊にもぶつかる。
 リアトロウルフが二頭の巨腹グモの敵意を引きつける。
 堕ちた星だけを見つめていた少年の耳に響く。
「破・甲殻《ルーイン》!」
 楽しげな魔法を詠唱。
 大きな尻尾を揺らして、妖精の少女は一体、一体と巨腹グモの注目を集めていく。
 青白く光る法輪が律動していた。
 リアトロウルフは足の速い眷属で、攻撃スピードも速い。
 それゆえに、硬くはない。
 一対多の戦いに耐えられるほど、その装甲は厚くない。
 耐えられない。
 眷属が倒れれば、その怨霊の憎しみは妖精本体に返ってくる。
 それでも彩香はリアトロウルフに、命令を下していく。
 可聴領域にはない音色で、次々と。
 統風は風を呼んだ。
 できることをしなければならない。
 密度の高い風を、怨霊を切り裂く刃とする。
 怨霊は切り刻まれ、塵となる。
 一つ、二つと。
「爆・炎焼《バーンアウト》!」
 妖精の少女は魔法を唱え続ける。
 自分自身に、巨腹グモの瘴気が降りかかろうと。
 気にもせずに、確実にその存在を灰燼とする。
 唇には楽しげな笑み。
 踊るように、彩香は次々に魔法を放つ。
 香草色の髪が揺れる。大きな狐の耳がリズムを刻む。シャランと装飾品が鳴る。
 死を恐れない。
 いや、妖精の少女は、自分が死ぬとは思っていないのだ。
 統風は、ただ攻撃魔法を唱える。
 回復魔法を唱える間も惜しい。
 一番最速の回復魔法と攻撃魔法の詠唱速度は、同等。
 巨腹グモは木属性。
 金属性のエルフ族とは相克。金剋木だ。
 破滅に導くには、最高の相手。
 同属性で比和になる妖精よりも、攻撃魔法の通りは良い。
 妖精も精霊師も巨腹グモの瘴気では、倒れない。
 そんな簡単に倒れるようには、神は創らなかった。
 どれほど苦しかろうと。
 喉をかきむしりたくなるほど、息ができなくても。
 瘴気ごときでは死ねない。
 統風は霊力の羽から矢をこしらえて射る。
 竜巻で敵を切り、その魂まで粉砕する。
 視界を埋め尽くすような巨腹グモの群れは、かききえた。
 まるで、初めからそこには何もなかったように。
 青黒い空気と幽かな月明かりが静かに降りる。
 なだらかな起伏を持つ山の裾。
 下草は少ない。
 そこに……冬闇色の髪を持つ美女が……横たわっていた。
 カサッと草を踏む音と獣の吐息が、統風のすぐ隣を横切った。
 彩香がリアトロウルフを連れたまま、凍夜に近づいたのだ。
 見れば、少女の法衣は無残に切り裂かれ、紫みを帯びた白い肌がところどころ露出している。
 肌の一部は瘴気によって忌まわしい色に変色していた。
 統風は短い回復魔法を、彩香にかけた。
 おぼつかない足取りだった少女は、ピタッと止まる。
「統風もケガしてるよ」
 言いながら、彩香は下草に膝をつく。
 リアトロウルフは従順に、足を揃えて少女の脇に座る。
「いい。これぐらい」
 ……死んだりはしない。精霊師だから。
 統風ものろのろと、凍夜の傍に近づく。
「変なの〜。
 ねえ。凍夜ちゃん」
 彩香は無邪気に問いかける。
 冥い青の双眸は閉じたまま、答えない。
 体中に、瘴気が回ったのだろう。
 透き通るような肌は見る影もなかった。
 統風は、目眩を覚える。
 頭の中を揺すられ続けるような。
 腹に突きたてられた痛みも、消失しない。
「ねえ、統風。
 どうして、凍夜ちゃん動かないの?」
 稚い問いだった。
「どうして?
 凍夜ちゃん、壊れちゃったの?」
 狐耳の少女は問いを重ねる。

「うるさい!!」

 統風は怒鳴った。
 狐型の耳は、ピクッと大きく動くと、頭に沿うようにぺたりと寝る。
 それはまるで動物の動きだった。
 妖族は……ヒトじゃない。
 まったく別の生き物なんだ。と若い精霊師は苦笑いをした。
 ベリルの瞳は困惑を伝えている。
 人族の体というのが、どれほど脆弱なのか。
 ……生命が失われれば、どうなるのか。
 彩香は知らないのだ。
 知るわけがないのだ。
 妖精は、生命力と精神力を瞬時に、入れ替える魔法を習得する。
 命の危機に瀕していても、易々と死を回避できる。
 そういう生き物なのだ。
 そして――。
「悪い。
 これから、魔法を唱えるから」
 言い分けにならないことを統風は口にした。
 妖精の少女は知らない。
 目の前で、他人の生命を削り取られているのを見ていることしかできなかった、精霊師の後悔など。
 永遠に知ることはないのだ。
「う、うん」
「怨霊がまた沸いたら、頼む」
「良いよ!」
 彩香は嬉しそうに笑った。
「頑張ろうね、りーちゃん」
 己の眷属の背を、傷が癒えた手が優しくなでる。
 統風は、意識を集中する。
 感覚が閉ざされていって、周囲の音が消えていく。
 視界も。
 ただ、堕ちた星だけしか目に入らなくなる。
 生まれて初めて唱える魔法。
 習得したとき、一度も唱えたくないと思った魔法。
 精霊師だけに与えられた“奇跡”。
 神と人の混血であっても弓を取ることを選んだ者には、より巨大で攻撃的な力を求めた者には、覚えられない魔法。
 この世界で、精霊師だけ。
 精霊師が精霊師たる最大の魔法。
 統風は絶望の中で唱えた。
 戦うことをやめない魂を肉体に帰還させる魔法。
 戦いの途中で倒れた肉体を、再び戦場に戻す魔法。
 これは奇跡なのかもしれない。
 でも、こんな奇跡は必要ない。
「復活を!」
 長い詠唱を一字も間違えずに、唱えきる。
 体中の精神力が、一気に奪われる。
 統風の体から、力が抜け、法剣を取り落としそうになる。
 ずっと握りしめていたライトグラムですら、まるで他人のような感触がした。
 ……重い。
 ふわりと光が天から零れ落ちる。
 それが横たわる女性の体に、一滴、二滴としみこんでいく。
 陰鬱な世界を一掃して、神の御手が差し伸べられる。
 ここだけが、昼よりも明るく無欠の光で満ちる。
 その中で、冥い青の瞳が開いた。
「……凍夜さん」
 ごめん、と統風が言う前に
「ありがとう」
 高くなく、低くもない。
 耳に心地よい声が言った。
 まだ完全に癒えきれていない白い手が伸びて、草むらに落ちていた双剣を握る。
 少年は何も言えなくなる。
「あ、凍夜ちゃん! 起きた!!
 おはよう」
 ニコニコと彩香は言う。
「おはよう」
 凍夜は立ち上がり、言った。
 細い腕が双剣を持ち上げ、月明かりの中で検分する。
 鈍い色の光がぬらりと光った。
 わずかに青い瞳が統風を見た。
「迷惑をかけた」
 真夜を形どった美女が口にしたのは、謝罪だった。
「……僕は凍夜さんを守るから」
 統風は言った。
 二度と“奇跡”など起こさずにすむように……精霊師のやり方で守るから。
 少年は決意した。
 それに、凍夜は返事をしなかった。
 うなずくこともなく、ただ己の剣を見る。
 さらりと短い黒髪が流れる。
 白い貌には表情らしき欠片はなく、淡々と剣を見続けている。
 それを統風は眺めた。
 ……後悔と呼ぶには重すぎる感情を抱きながら――。

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