こんなことは、姉ぐらいにしかこぼせない。
統風は思った。
祖龍の城、南。
姉以外の顔を見たくなかった。
日が沈む一瞬前の空を写しとった色のコートに身を包んだ少年は、城壁の上に座っていた。
太陽は山の彼方に沈もうとしていた。
姉の跡風に会えるかどうかは、わからない。
統風の先を行く、精霊師の女性は……いつでも遠くにいる。
その距離は、故郷の村にいたころよりも、開いた。
少年が諦めて立ち上がろうとしたとき。
夜が滑りこんだ。
青水晶で、こしらえた翅が煌く。
ここにいるよ。ここにいるよ。
と、小さくささやいていた。
緑の瞳が見上げた先には、同じような色をした瞳があった。
自分のそれよりも、もっと深い。
ずっとずっと、弱くて、耐えていて……それでも微笑んでいる瞳があった。
「統風」
優しい声が呼ぶ。
「久しぶりね」
月の光にかき消えそうなほど、儚い存在が統風の前に降りてくる。
長い法衣の裾が揺れる。
白に青緑を基調とした法衣は、力を示すように強い光を放っていた。
翅よりも、武器よりも、輝いていた。
法衣に縫いつけられた宝石は、ルビー。
月の光の中でも燦然と煌く。
物理を上げる魂石だ。
前衛ではない精霊師が……、ルビーを法衣に縫いつけるのは飾りではない。
妖族や人族に比べて、エルフ族は直接的な打撃に脆い。
羽の力で敵の攻撃を吸収することもできるが、多大な精神力を必要として、常時、使えるわけではない。
統風は微笑んだ。
「今度の怨霊は……強かったの?」
弟の問いかけに、姉は
「そうね」
泣き出しそうな顔をして、微笑んだ。
精霊師は最後まで倒れてはいけない。
たとえ誰かが倒れたとしても。
最後まで、独りになっても、生き延びなければならない。
「強かったわ」
跡風は統風の隣に座った。
揺らいだ空気に、薬の香りが混じっていた。
少年にはわからない仙丹のものだ。
初めてかぐ香り。
跡風は膝の上に乗せた法輪を指先でなでる。
「姉さん」
統風は月を見上げる。
「信頼って重いね」
誰にもこぼせなかった言葉を呟く。
課せられた重みに少年は、途惑っていた。
同じ精霊師であり、先を行く姉にしか話せない。
こんなことは、言えないのだ。
「そうね」
姉の声には、後悔がにじんでいた。
それに統風は気がつき、表現しようにもできない感情に支配される。
自分だけではないのだ。
重みを感じるのは。
少年は、白すぎる月を見据える。
地を徘徊する怨霊を隠そうとする夜を睨む。
怨霊討伐には危険がつきものだ。
過去と呼べるほど、古びていない記憶の中で。
姉は……蘇生の奇跡を使ったのだろう。
統風の知らない誰かの生命が、失われるその瞬間を目撃したのだろう。
……間に合わなかったのだろう。
生命を守りきれなかったのだろう。
砕け散ろうとする魂をかき集めるのがやっとで。
本当は逃げ出したいほど怖かったはずだ。
本当は泣き出したいほど辛かったはずだ。
自分が傷つくことよりも、他人が傷つくことのほうが痛みを感じる。
姉は、そんな精霊師だから、簡単に想像ができた。
「凍夜さんに訊いたんだ。
怨霊の憎しみを一手に引き受けて戦うことは、怖くないのかって」
統風は言った。
憎しみを引き受ける役は、一番初めに死んでもおかしくはない。
前衛とはそんなものだ、といわれればそうなのだけれど。
恐怖を感じないのか、と思ったのだ。
「そうしたら――」
『統風を信じている』
冬闇の色をまとう美女は言った。
ごく自然に。
責任を押しつけようとするのではなく。
当然といった傲慢さもなく。
ありのままを綴った、とわかる言葉だった。
パーティを組んでいて、最も嬉しい言葉だろう。
でも……。
駆け出しの精霊師には重い言葉だった。
「僕は……凍夜さんを守れない」
一度は、目の前で失われそうになった魂だ。
助け切れなかった生命だ。
「それでも。
凍夜さんは僕を信頼してくれている」
嬉しかったけれど、悲しかった。
できることなど、限られているのだ。
エルフ族は、神の子かもしれないけれど。
神が万能ではなかったように。
精霊師にできることは……限られている。
「姉さん。信頼って重いね」
統風は、くりかえす。
似た色をした姉の目に答えがあるような気がして。
少年は精霊師の女性を見つめる。
「そうね」
跡風もまた、同じ言葉を呟いた。
それから、姉は微笑んだ。
「でも、統風なら乗り越えていけるわ。
私にもできたんですもの」
跡風は立ち上がった。
白と青緑の法衣の裾が揺れる。
「こんな私でも、ここまでこれたわ。
だから、大丈夫よ」
跡風は言った。
遥か高みを目指すように、姉は月を仰ぐ。
そう……神の領域を目指すように。
「まだできることがあるもの。
諦めてはダメよ。
私たちは、まだ強くなれる」
跡風は法輪を握る。
「パーティを守るために、まだ強くなれるのよ」
まるで自分に言い聞かせるように、姉は言う。
「うん」
少年はうなずいた。
さらに研鑽を積めば、強くなれる。
与えられた魔法書に書かれている魔法を、最後まで習得していない。
これから先があるのだ。
「ありがとう」
統風も立ち上がった。
自分よりも華奢な体、繊細な心を持つ女性は、微笑んだ。
それは故郷の村で見たものと同じ。
気弱で、自信に満ち溢れたとはいえないものだったけれど。
だからこそ、統風は微笑みを返した。
「ありがとう」
もう一度、言った。
外に出された後、姉が泣いたところを一度も見たことがない。と少年は気がつく。
信頼の重さを知っても、なお。
消えていく生命の儚さを知っても、なお。
姉は泣いて嫌がったりはしていない。
統風以上に、辛い局面を見てきただろうに。
……もう、泣いたりはしないのだ。
統風の前では。
「迎えが来たみたいね」
跡風はクスクスと笑う。
視線の先を追えば、石畳を走ってくる美女と狐の二人組み。
「統風!
次の指令を受けてこようよ!」
彩香の明るい声が下からでも、十分に届く。
「呼び捨てにするな、狐!」
「狐じゃないもん!!」
「その耳と尻尾を隠してから、せめて言えよ!」
「うーー。
跡風姉さん、統風がいじめるよぉ」
彩香は言った。
姉は、小さく笑う。
「大切にしなさい。
どれだけ寿命があったとしても、今の瞬間はこれきり。
だから、大切にしなさい」
跡風は弟だけにささやく。
それから青水晶の翅を広げ城壁を滑るように降りる。
「彩香ちゃん。
また新しい服を買ったのね。
似合っているわ」
跡風は言う。
「ホント!?」
現金な狐の耳はぴょこんと持ち上がる。
それに呆れながら、統風も城壁から降りる。
妖精の少女はファッションについて、姉相手に語り始める。
精霊師の女性は、ニコニコと耳を傾けている。
少年はためいきをついた。
「邪魔をした」
凍夜は言った。
少年に届くだけの、控えめな音量だった。
「話なら、もう終わったから」
だから大丈夫。と、統風は微笑んだ。
信頼は重いけれど。
重いと感じるけど。
それに、応えたいと思うから『重い』のだ、と気がついた。