祖龍の城の南は、別天地のように美しい光景が広がっている。
どこまでも青い空は、斧柄の丘を思い出させる。
大きな湖は、月羽の湖を懐かしませる。
白い砂浜は陽光を受けてキラキラと輝き、エキゾチックなヤシの木が茂る。
徘徊する怨霊は多く、好戦的なものもいるため、決して楽観できない場所ではあったが、祖龍の城南という場所は「美しい」という点に置いて、間違いはなかった。
統風は城壁に腰かけ、南の景色を眺めていた。
精霊師マスターに新しいスキルを教えてもらった、その帰りだ。
今日は、怨霊を討伐に行く予定もなく、暇だったということもある。
何となく西に戻らず、南の門まで飛んできてしまった。
コウモリの羽ならばすぐの距離だ。
歩いたとしても、そんなに時間はかからない。
故郷の方角は、あちらだろうか。
あの山の先には、どんな怨霊が待ち受けているのだろうか。
統風が取り留めのないことを考えを中断させるように。
キラリッ。
青水晶作りの翅が、風景の中で煌めいた。
蝶のように繊細な飛行具を持つことができるのは、高位のエルフ族のみ。
輪郭すらあやふやな距離だったが、統風には誰だかわかった。
少年の顔に笑みが浮かぶ。
それに応えるように、青水晶の翅は難なく距離を縮めていく。
少年のいる城壁の真上で、女性は翅をたたんだ。
翅を失った細い体は、すとんと地上に引き寄せられる。
滑空というよりも、墜落に近い降り方だったが、女性は足をそろえて城壁に立つ。
ふわりと長い法衣の裾が揺れ、そよ風のような風もパタンと止まる。
エルフ族の精霊師。祖龍では珍しくもない。
裾が引きずるほど長い法衣。祖龍ではよく見るもの。
ただ栗色の長い髪、落ち着いた緑の瞳。自分によく似た色。
自信なさそうな、気弱な微笑み。傲慢さから遠い、他者にひどく気を使う眼差し。
それらを持つのは『姉』ひとりだ。
「姉さん。
武器、変えたんだね」
統風は言った。
自分よりも小さな手が握っているのは、二枚貝を思い出させるような大きな法輪だった。
陽光の中でも、その武器は青白く光っている。
最後に会ったときに、姉が手にしていたのは短杖だった。
それも、青白い光に包まれていた。
生産品の中でも、最高級品を意味する強い光。
姉は「力を他人に見せびらかしたい」と思わない人物だ。
純粋に『力』を表現する光を受けて、怯えのようなものが見えた。
「え。……そうよ。
少しだけ強くなったから」
跡風は、頼りげなく微笑む。
「法剣は使わないの?
たとえば、黄昏とか」
神兵利器には劣るものの、一部の洞窟でしか得られない材料で生産される武器や防具は、ケタ違いに強い。
危険を冒して材料を取りに行く価値がある。――とされている。
統風のレベルでは、持つことが適わない武器だが、姉は違う。
黄昏の洞窟の法剣を持つことができるはずだ。
跡風は困ったように微笑んで、統風の隣に座る。
花の香りが、少年の鼻をくすぐる。
人工的な香りではない。
自然に咲く花の香りは甘く、清々しい。
「強い武器を持つのには、覚悟がいるわ」
跡風は呟くように言った。
統風は姉の横顔を見つめた。
「強い武器があれば、より多くの怨霊を狩ることができる。
でも、強い武器があっても、より多くの人を助けることはできないのよ。
私は……今でも、戦うことが怖いの」
膝に乗せた法輪を細い指先が撫でる。
「自分の身を守るだけで、精一杯。
誰かを助ける余裕なんて……ないわ」
「武器が強ければ、それだけ回復魔法の威力が大きくなるはずだけど?」
「そうね」
跡風は複雑な顔をした。
少年は疑問を覚えた。
「統風の言うとおりね。
精霊師の武器は、回復魔法を増幅させるためのもの。
生命を守りきる光の壁となるもの」
跡風は法輪を撫でていた手を止める。
自分より深い色の瞳は、何かを決意したようだった。
あるいは『覚悟』というものだろうか。
痛々しい。
胸苦しくなるぐらいの、悲痛な空気が漂う。
瞬きをする間ほどの短い時間。
少年が次に見たときには、姉は優しく微笑んでいた。
「今日は、統風に渡すものがあったのよ」
丁寧に使っていることがわかるカバンから、草の束が出てくる。
甘い香りの原因だ。
梅と鬱金香(チューリップ)が100本ずつ束になっている。
「もうすぐ凍夜さんの誕生日でしょう。
だから、統風から渡してくれるかしら?」
「え?」
「誕生日は一年に一度ですもの。
ちゃんとお祝いしないとダメよ」
跡風は『姉』の表情で、弟に諭す。
「誕生日って言っても。
お祝いとかするタイプには見えないんだけど」
狐じゃあるまいし、と統風は思った。
誕生の祝いなんてするのだろうか。
どうも頭の中でつながらない。
「私たちにとっての一年と、人族の一年は重みが違うわ。
祝えるうちは祝っておくの」
跡風は言った。
「でも、花なんてもらって喜ぶのかなぁ」
「私だったら嬉しいわよ」
「それは姉さんが薬調合師だからじゃないかな」
梅も鬱金香も、仙丹の材料となる。
駆け出しの冒険者では、摘んでくることもできない場所に生えている。
統風も、ようやく梅を摘めるようになったばっかりだ。
鬱金香が咲いているのを見たことがない。
「凍夜さん、薬調合師の勉強をしていないみたいだし」
していたところで、使いこなせない薬草たちだ。
「花をもらって喜ばない女性はいないわよ」
跡風は明るい声で断言した。
「そこまで言うなら、僕から渡しておくよ」
「きっと、喜ぶわ。
それじゃあ」
精霊師の女性は立ち上がる。
その背には青水晶の翅が広がった。
音一つないはずなのに、それは金銀の鈴が打ち合うような綺羅やかな音が見える。
「姉さん」
飛び立つ姉を、統風は引き止める。
「用は、それだけ?」
少年は尋ねた。
「ええ、それだけ。
ごめんなさい。
休みの邪魔しちゃって」
「いや、それは良いんだけど……」
統風も立ち上がった。
「気をつけて」
自分よりも高位の精霊師に告げる言葉ではない。
そう思いながらも、少年は言った。
「そうね。
気をつけるわ」
跡風はうなずいた。
青い光の軌跡を残しながら、南へ。
統風が未踏の、山の向こうへと飛んでいく。
見送りながら、
「戦うことが怖い、か」
統風は、呟いた。
姉の本質は、変わっていない。
それでも戦うのだ。
◇◆◇◆◇
凍夜の誕生日は、底冷えするような寒い冬の日だった。
統風は姉が用意した草の束を持って、いつものたまり場に向かう。
花の束だが、花束というと語弊がある。
やはり草の束だ。と精霊師の少年は思った。
祖龍の城西のたまり場には、すでに妖精の少女がいた。
統風の知らない服を着ていた。
『また』服を増やしたのだろう。
「えへへ、買っちゃったぁ〜」
彩香は得意げに言う。
黒を基調とした、膝丈のワンピースタイプのドレス。
背中が大きく開いているが、露出度は低めだ。
ふんわりと広がるシルエットが、愛らしい。
「姉さんのほうが似合ってたな」
統風は、思ったことを口にした。
「わたしだって似合うもん!」
全身の毛を逆立てるように、彩香は言う。
「まあ。狐は何を着ても、狐だからな」
「ひっどーい!
服を買うときは、これでもちゃんと選んでるんだよ!!」
「緑ばっかりを、な」
「それは!!
だって、緑って綺麗でしょ!」
緑の髪の少女は言った。
緑の瞳の少年はためいきをついた。
「たまには違う色も着たら、どうだ?」
「違う色もあるんだから!」
緑色の服ばかりを購入している少女は、必死に言う。
「ふーん」
どうでもいいことだったので、統風は適当な相槌を打った。
「ちょっと、他人の話、聞いてる?
聞いてないでしょ」
「あ、凍夜さん」
少年は群衆の中から、冬闇を宿した美女を発見した。
一目で見抜くことができる。
どれだけ人がいようとも、かけがえのない存在は、紛れることがない。
あちらも気がついたらしく、こちらに向かって走ってくる。
「話の腰を折らないでよ!」
妖精の少女は怒って、統風の袖を引っつかむ。
「本当に、凍夜さんだよ」
少年は指し示す。
「ホントだ!
凍夜ちゃーん!!
誕生日、おめでとう♪」
彩香はニコニコと叫ぶ。
統風は「とりあえず」隣の妖精にウィンドアローを撃ちこみたくなった。
この妖精の少女は、どこまでいっても調子がいい。
美味しいところをちゃっかりと持っていくのだ。
凍夜は二人の前で立ち止まる。
走ってきたはずなのに、息は切れていない。
「ありがとう」
平坦な口調で凍夜は言った。
そこには「嬉しい」「喜び」といった感情は見つからなかった。
むしろ途惑い。
途方にくれたような目をしていた。
「凍夜さん、これ。
誕生日プレゼント」
統風は草の束を手渡す。
氷のような美貌に、色が広がる。
まるで匂うような艶やかさ。
凍夜は花の香りを楽しむように、草の束を抱えこむ。
「ありがとう」
感情がにじんだ言葉だった。
それを見て、統風は後悔した。
鬱金香を摘むことはできないけれど、梅なら自分でも摘むことができた。
自分で摘んでくれば良かった。
そうしていたなら、この感謝の言葉を受け取る資格ができたのに。
全部ではないけれど、受け取ることができた。
「あのね! わたしもプレゼントがあるの!
これとこれとこれと」
彩香がカバンから取り出す。
トチノキ、天仙子、ツルドクダミ。
見事に仙丹の材料になる草ばかりだ。
「高く売れるよ!!」
少女は言う。
薬調合師の資格を持っていないのだから、売るのが一番なのだが。
それにしても、もう少し見た目の良さそうな花を選んでも、とは思った。
お世辞にも、ツルドクダミは「美しい」とはいえない。
「あとね。これ」
彩香が取り出したのは、妖精らしいものだった。
孵化していない卵と金属製の首輪。
「?」
凍夜は不思議そうに卵を見ていた。
蚕の繭にも似た卵は、一抱えほどの大きさをしている。
「凍夜ちゃんでも連れていける、ミニウサギなんだよ」
彩香は得意げに言った。
妖精以外がペットを持つのは、大変だ。
妖精が戦闘ペットに使うミニウサギの卵を10匹分集めて、ようやく他職が連れて歩けるマスコットペットになる。
戦闘に参加しない完全なマスコットだが、見た目が愛らしいものがそろっている。
ファッションとして、長い旅の友として連れて歩く人物も少なくない。
当然、マスコットペットは高額で取引されることとなる。
「卵だが」
凍夜は言った。
「城西から城北に向かう途中の、ペット管理人のところで孵化させられるよ」
統風は教える。
「そうか。行ってくる」
誕生日プレゼントを抱えた美女は、走り出した。
残された二人は顔を見合わせる。
「あれ、自分でテイムしていないだろう」
統風はぼそっと言った。
「バレたぁー。
買っちゃった」
「妖精なんだから、自力で捕まえて来いよなぁ。
ウサギは1時間沸きだろ?」
「大変なんだよぉ〜」
彩香は口を尖らせる。
「ミニウサギは戦闘の邪魔にならないから、良いんじゃないか?」
「でしょ。可愛いし」
「でも、育てないよなぁ。
妖精なのに」
ミニウサギを戦闘に使うことは可能だ。
それでも、目の前の妖精の少女は使役しない。
リアトロウルフを可愛いといい、ストーンゴーレムを可愛いという少女だ。
可愛いすぎて、使役できないわけではない。
統風は苦笑した。
「律鎖だって育ててないじゃん。
レアペットで使えるのって、カエルとクマぐらいなんだよ!
ウサギって弱いんだもん」
ぶつくさと彩香は言う。
そんな二人のところへ、凍夜が戻ってくる。
「この子、ついてくる」
足元にいるミニウサギを指す。
「名前、どうしよう」
凍夜は呟いた。
どうやら、とても気に入ったようだった。
「凍夜ちゃんの好きな名前にしなよ!
金花婆のところへ行けば、名前をつけられるよ」
彩香はニコニコと答えた。
「ん」
凍夜はうなずく。
さらりと流れた黒髪の艶やかさと稚い仕草の間に、大きな差があって、統風はドキリっとした。
隠されていた本質が一瞬だけ、覗いたようにも思えた。
「二人ともありがとう」
凍夜は微笑んだ。
それを見た精霊師の少年と妖精の少女は、嬉しそうに笑った。
誰かの役に立てることが嬉しい。
誰かを笑顔にさせられることが嬉しい。
それが、大切な人であれば、なおさらのこと。
かけがえのない。
大切な、大切な人。
その笑顔が、とてもとても二人には嬉しかったのだ。