不穏の前の平穏

 中央に龍のある城。
 その西側の城壁の上に、妖精が寝転がっていた。
 飛行術を知らなければ降り立つことはできない場所。
 水色のモノポが、その隣でぼよんぼよんと弾んでいるのが目に入った。
 モノポキングを戦闘用ペットにしている妖精は珍しい。
 統風は高度を下げた。
 やはり、顔見知りの妖精だった。
「何してるんだ?」
 少年は尋ねた。
 祖龍城の城壁は厚みがある。妖獣が手を広げて倒れても、まだ余るほどの石を切り出して、壁としている。
 それよりも小柄な妖精が寝転がっていても、滑落の心配はないが……、不思議な場所にいることは確かだった。
「日干し」
 美しい乙女が答える。
 それは、今まで聞いた声の中で、誰よりも一番、平坦で抑揚のない美しい声だった。
 耳障りなほど高くないのに、澄んでいる。
「レンガになる」
 妖精の乙女――律鎖は言う。
 少女と呼ぶには幼さがなく、女性と呼ぶには“らしさ”がなかった。妙齢とも言いがたい。
 あえて、くくるなら乙女としか言いようがない。
 そんな容姿だった。
 狸型の耳とその尾から、わかるように彼女は妖精だ。
 男の性を持つ者なら、心を乱されずにはいられない魅力的な存在……なのだが、律鎖にはそういった要素が気薄だった。
 長く伸ばした髪は青みを帯びた銀の色。瞳はそれよりも深いが、それでも銀の色。
 これ以上ないほど、純白の肌。日差しを浴びたことがない人間であっても、手にすることができない、完全な白の肌。
 唇は春先に咲く花のように淡く、化粧らしきものはない。
 律鎖を見て、醜いといえる人物はいないだろう。
 だが、情欲や羨望の対象になるかというと、そう感じる人間は少ないだろう。
 何もない。
 それが律鎖の美しさだった。
「お日さま、好き」
 律鎖は起き上がる。
 青銀の滝のような髪がその動きについてくる。
 それは美しかったが、それだけだった。
 乙女はカバンの中から、器を取り出した。
 金属製で、飾り気はない。
 細微な彫りもなければ、宝石があしらわれているわけでもなく、凝ったデザインでもない。
 ただ磨かれ、大切に使われてきたとわかるデザインだった。
 律鎖は器を石の上に置くと、カバンから透明なガラス瓶を取り出す。
 中には、透明な液体が入っていた。
 律鎖は慣れた仕草で、器を液体で満たして、モノポキングの目の前に差し出す。
 くいっと鳴いていた眷属は、それを美味しそうに飲み始める。
「大きくなれる」
 律鎖は言った。
 統風はモノポキングを挟んで、律鎖の隣に座る。
 かすかに揺らいだ風に、戦闘用のペットが警戒的な鳴き声を上げる。
 それを真っ白な手が撫でて止める。
「ペットが?」
 統風は尋ねる。
「みんな大きくなる。
 わたしも、お日さまで大きくなった」
 律鎖は、すっかり空になった器を手に取る。
 カバンから柔らかな布を取り出すと、器に残った水滴を丁寧に拭う。
「それと、水」
 妖精の乙女は言う。
 それで統風は、ようやく理解した。
 水生木。
 相生の関係だ。
 木は水によって養われる。
 小動物や草木が霊力を溜めて、姿かたちを作ったものが『妖精』だという。
 律鎖は静かに器と布をカバンにしまった。
 銀の瞳はガラス瓶を見て、小さく呟く。
 白い手の平の中で生まれた炎でかききえた。
「律鎖が祖龍にいるなんて珍しいな」
 統風は話を変えた。
 白と緑を基調とした長衣の法衣は、研鑽を積んだ魔法職しか袖を通すことができない。
 一人でも多くの兵士を怨霊討伐に当たらせる。
 それは三種族連合の姿勢であるから、高位の兵士ほど遠方の、より強力な怨霊討伐を要請する。
「今日、城が襲われる」
「!」
 統風は目を見開く。
「伝令が言う。
 だから、見に来た」
「え。
 律鎖は守らないのか?」
「夏風将軍、強い。
 とても強い。
 人族。でも神が選んだ。
 死なない。必ず、勝つ」
 律鎖は言った。
 祖龍城の守備を任されている夏風将軍は生きた伝説だ。
 異形の刀を一閃するだけで、怨霊の群れは灰燼となるという。
「だけど、それだけのために?」
 見る価値はあるだろうけれど。
 統風は疑問に思った。
「わたしは戦わない。
 戦うのは、友だち」
 律鎖はモノポキングをギュッと抱きしめる。
 眷属の首にはめられた金属の輪が光を弾く。
 『ペンペン』と名が掘りこまれているのが見えた。
「パーティは組まないのか?」
「いつも、友だちと一緒」
 銀の瞳が不思議そうに統風を見る。
「まあ、そうだけど」
 少年はためいきをついた。
 律鎖からすれば、眷族と人語を解する他の生き物との差がないのだろう。
 人の輪に入っていくのを好む彩香とは、正反対だった。
 妖精の乙女は、おもむろにカバンから取り出す。
 法衣と指輪。
 どちらも最高のものだと、一目でわかった。
 流れている霊力が違うのだ。
「洞窟にいくと、増える。
 わたし、いらない。
 だからあげる」
 律鎖は言った。
「売ればそれなりの価値に……」
「わたし、必要ない。
 統風、必要」
 ずいっと法衣と指輪を渡す。
 高位である妖精の乙女には価値のない防具類だ。
 だが、統風にしたら、ちょうど良い装備品だった。
 視界に薄紅色の花弁が広がる。銀の髪が流れる。モノポキングは存在を揺らがせる。
 律鎖は城壁から飛び降りた。
 統風は驚いているうちに、律鎖は人ごみにまぎれていってしまう。
 残された少年は、ためいきをついた。
 移動加速の魔法を使った妖精に、統風の羽では追いつけない。
 残された装備品を拾い上げると
「何を考えているのか、わからないなぁ」
 エルフ族の少年は呟いた。

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