「仲達か……」
まるでうわごとのように、呼ばれる。
あるいは確認か。
玉座というものは、それほど座りにくいものなのか。
就いたことのない司馬懿には、わからなかった。
明確なのは、玉座から降りた男は、元の姿を取り戻したということだった。
それが心底から哀れだと思った。
思い返すのは青年が玉座に就いたときのこと。
文人らしいもの憂げさを漂わせ、それでも父から偉業を継いだことに喜びを浮かべていた面。
あれから十三年。
父より長いが、父より若く、死の床へ就いた。
男は、玉座を譲り渡そうとしている。
ようやく……なのかもしれない。
司馬懿は、側に侍る。
己の子らと変わらないはずの皇帝は、寝所で死を待っている。
「ここに」
司馬懿は言った。
皇帝の枯れ木のように細った指が宙を彷徨う。
男は酒に溺れ、無駄に生命を細らせた。
否、死を願ったのか。
消極的な自殺。
己の首をはねるほどの気概はなく、胸をついて見せるほどの豪胆さはなかった。
玉座を埋めるだけの生きた骸。
ようやく、影は本体と重なったのだ。
死にたくても死ねない。
皇帝というのも難儀な職務だった。
官吏であれば、職を辞して、故郷へ帰ることもできる。
帰るべき場所があり、迎えてくれる親族がいるのだ。
宮殿で生まれ、宮殿で育った皇帝にはそれがない。
ここにしか居場所がなかったのだ。
放棄して、どこかへ消えることもできない。
だから、死を渇望し続けた。
それが玉座から降りる、ただ一つの手段であったからだ。
「この玉座は、私が父から唯一貰い受けたもの」
曹叡は言った。
死の淵にありながら、爛々と光る眼。
父とは違う双眸が司馬懿を見据える。
同じではない。
これほど似ていない親子も珍しいだろう。
二人目の皇帝の死を見送りながら、司馬懿は思った。
「渡さぬ。
決して、叔父には渡さぬ」
死臭を漂わせる男は言い切った。
先々代は多くの子に恵まれたゆえに、皇帝には多くの叔父がいた。
玉座に就いてもおかしくはない才覚と人望を集める人物が複数いた。
いったい誰のことを指しているのか。
それとも全てなのか。
言葉だけでは、わかるまい。
ただ一人を指しているとは、……わからないだろう。
「多くのものを手にして、さらに玉座まで……。
仲達。
渡してはならぬ」
「はい」
司馬懿は死出の旅が心安らかになるように、と頷く。
唐突に痩せた指が青紫の長袍をつかんだ。
力強く引き寄せられる。
いったい、どこから力が湧いてくるのか。
最期の力を振り絞っているのか。
母親譲りの色の瞳が司馬懿を見る。
「渡すぐらいなら、そなたにくれてやる。
父と私、二代によく仕えてくれた礼だ」
皇帝の口元がゆがむ。
冷たい笑みだった。
大きく開かれ、瞬かない目が、奇妙だった。
「もったいないお言葉です」
司馬懿は言った。
細った指先がするりと寝台に落ちる。
永訣の刻。
死に行く者は、安堵していた。
玉座に座っていたときよりも、幸せそうな顔をしていた。
十三年間、見ることのできなかった優しい空気だった。
まるで時間が逆戻されたような、錯覚を覚える。
先の皇帝が玉座を埋めていた頃のような。
記憶は今でも鮮やかで、見失うことなどない。
未来は果てなく、星の数ほどの希望があった。
やるべきことは山積していて、期待に満ちていた。
「この大地を頼む」
皇帝の顔をして、曹叡は言った。
「かしこまりました」
十三年前にも、託された。
病床、皇帝たちは行く末を案じる。
玉座を降りた後まで、その玉座に縛られる。
息を止めるその瞬間まで、その慈愛は地に施される。
まだ若い皇帝は知らない。
知ることなく、死んでいく。
誰よりも敬愛する父が最後まで、気にかけていたことを。
この大地と同じほどに。
不覚にも、目頭が熱くなった――。